―テーマ:「花」その他―
- 稲垣きくのの句/土肥あき子
- 赤尾兜子の句/仲寒蝉
- 三橋敏雄/北川美美
- 戦後における川柳・俳句・短歌/兵頭全郎
- 永田耕衣の句/池田瑠那
- 戦後川柳/清水かおり
- (戦後俳句史を読む)「遷子を通して戦後俳句史を読む」座談会④(仲寒蝉編集))
出席者:筑紫磐井、原雅子、中西夕紀、深谷義紀、仲寒蝉
稲垣きくのの句/土肥あき子
こころの喪あくる日のなし花散れり
きくのにとって、しばらく桜は悲しい思い出を引き連れてくる花だった。
第一句集『榧の実』に収められた掲句は昭和33年の作で、前書に「急逝せし弟の三回忌を迎ふ」とある。
きくのにはふたりの弟があり、上の弟は昭和30年春、下の弟は昭和51年に亡くしている。作品は昭和30年春に40代の若さで亡くなった上の弟の三回忌に宛てたものだ。集中には並んで
ゆく春やかけがへのなきひと失くし 『榧の実』
がある。
きくののエッセイ「古日傘」によると「南方の島々で全うした命を、彼は松林の家で自ら絶った」とある。自死の理由はさだかではないが、彼の嫁となった女性はきくのが紹介したといういきさつもあって、家庭の事情が関係してくればなおのこと後悔も嘆きも深いものであったと思われる。昭和35年作の
花散れりこころの呪縛まだとけず 『榧の実』
も弟の一件に関わるものだろう。
姉弟はたいへん仲がよかったようで、戦地の弟へ「火焔樹の花を知りたいからもしあったら写生して送ってほしい」ときくのが書き送れば、烈しい戦いのひまを見つけスケッチと押花が返ってくる。同封の手紙には「道路に並木を作って咲きそろう頃はその名のとおり火焔のようで(中略)相当どぎつい花だが親しみが持てる」と記されており、きくのは長旅を経てしなびた南国らしいおおまかな花片を愛おしく「弟の、その手に触れる思いで」手に取っている。
先日、きくのの姪の栄田さんから、叔母であるきくのの話しをうかがう機会を得た。赤坂の広大な屋敷の思い出のなかで、ことのほか印象に残っているのが紅蜀葵だったという。紅蜀葵は独立した花弁が特徴のハイビスカスのような花で、その目に沁みるような赤と5片の花弁の独立した姿は火焔樹の花にも似る。
きくのは毎年咲く紅蜀葵を見ながら、戦地にいても、姉を慕い南国の花の姿を描き送ってきた弟の姿を重ねていたのではないか。
とはいえ、なぜかきくのの作品のなかで、火焔樹も、紅蜀葵も一度も出てこない。
その後、栄田さんから紅蜀葵の種を頂戴した。乾いた花房から小さな種がころころと手のひらにこぼれる。この無愛想な種から深紅の花が開くのだ。
愛するものを秘めるきくのの胸のうちのように。
赤尾兜子の句/仲寒蝉
「花は変」芒野つらぬく電話線 『歳華集』
昭和44年の作を集めた「花は変」の章にある。
『歳華集』にしては解釈の難しい句である。中七下五は何でもない。電話線のケーブルが芒野を貫いている風景があるばかりだ。問題は上五、まずもって「花」とは何か?「変」とは何か?何故「」付きになっているのか?
日本の文芸の伝統に従えば「花」は桜の花である。だが直後に芒野が出て来るから風景としての桜の花ではあり得まい。すると桜以外の花か、もしくは象徴的な「花」ということになる。
この句を読む時に忘れられないのは『歳華集』の栞に「神荼吟遊」の題で塚本邦雄が寄せた文章である。塚本はこの句あたりから兜子の俳句が変わって来たことを感じ取った。このことは先にも触れたが、その文章を引くと、
兜子が『歳華集』一巻の最高音部をなす「花は変」の主題句を「渦」に発表した時、私は彼自身の異変を予感した。彼の言葉の花、心の花が最早既往の不安な均衡に耐へず、あるひは慊りず、いづれは崩壊の上新しい活路を見つけて打開くことは自明であつた。「花は変」のうつくしい独断には、さう言はねば生きてゐられぬ彼の切ない願望が籠められてゐた。
この文章は
数数のものに離れて額の花
という、もうひとつの兜子の花の代表句についての解説の出だしであった。塚本は「花は変」の花を象徴的、抽象的な花と解釈し、「額の花」の方を具象物としての花と受け取って「変後の花」と呼んだ。
彼は後に昭和49年刊の『百句燦燦』でこの「花は変」の句を取り上げ、世阿弥の「時分の花」になぞらえて鑑賞してもいる。
その青春に「時分の花」を持たなかつた世代の屈折した花嫌悪症もしくは花偏愛症に関しては、私も身につまされるふしが無くもない。しかし花は変なりといふさらに屈折した認識は私の意表を衝くものがあつた。かく断言したあとで作者はいささかも後髪を引かれなかつただらうか。花とは容易ならぬ言葉であつた。彼にとつてはたとへ「変」なる条件つきであるにせよ、一度見た幻の花は呪符となりおほせる。(中略)芒野の彼方と此方には修羅がある。ここ過ぎて憎しみの町、虚妄の市を繋ぐ電線の中を、すでにことごとくを見つくした彼の冷やかな認識が直流する。などか花なかるべき、などて変なかるべき。さらに言ふなら作者はかつて一度も不変など信じてはゐなかつた。「花は変」とはそのまま「変は花」であり、つねに死と隣りあはせとなつて生きることを迫られた人間のつひの美学であつた。
これ以上何を付け加えることがあろうと言うほど見事で美しい文章である。「変」の意味は広辞苑によると1)非常の出来事。事故。事件。2)普通でないこと。異常。奇妙。このいずれかということになる。しかし塚本は変を不変の対義語、即ち不易に対する流行のように解している風である。
ただこの鑑賞を読んだ後も依然として筆者には上五と中七以下が頭の中でうまくつながらぬ。ここは中七以下の風景をもう一度見つめ直してみよう。塚本の言う「虚妄の市」同士をつなぐ現代の象徴とも言える電話線が一歩都市を離れると昔ながらの芒野を通っている、その取って付けたような違和感が兜子をして「花は変」と断言せしめたのではなかろうか。この「花」は今や芒野となっているこの場所に咲いていた筈のいにしえの「花」、新古今から世阿弥をつらぬく日本の伝統としての「花」である。「花は変」とはその「花」が姿を変えて現代にも生きており、その姿とは或いは芒野をつらぬく電話線なのかもしれぬと、そういう意味ではなかろうか。だからこそ芒野の風景のかなたの、変ってしまったが故に不変の姿を保つ「花」に対して「」付きで「花は変」と呼びかけたのである。
三橋敏雄/北川美美
切花は死花にして夏ゆふべ
花に「生」と「死」を見るのは、ジョージア・オキーフ、アラーキーが思い浮ぶが、敏雄に共通の審美眼をみる。
野に咲く花には生命臭があり、自然界から切り離された切花は既に屍である。夏は特に水が腐り易く、異臭甚だしく花は水の中で腐っていく。掲句は「切花」を通し、今生の儚さと死後の世界の美しさを秘めているように思える。それが「夏ゆふべ」のおどろおどろしさと重なり彼岸をも暗喩している。掲句は『疊の上』収録。
日本人の美の根底にある「幽玄」を「花」に見ることが多々あるが、あえて「死花」として表記しているところにタロットカードの死神に近いものを感じるのである。
活花や家居を永くせざりしよ 『鷓鴣』
「いけばな」もしかり、「幽玄」の美意識から発展してきた。ここにある「活花」が立華に代表される定型、あるいは茶花のような非定型なのか、はたまた中川幸夫のような血のような前衛いけばな芸術なのかは見えてこないが、すでに半屍となった植物が、造形・装花として屋内にあることがわかる。切花に残る匂い、その存在が敏雄を屋外へと押し出していたのである。「いけばな」の起源はアミ二ズムにあると考えられており、切り落としてもまだ生命を維持できる植物の神秘性が根源らしい。ゆえに、その美しさは一瞬のものである。敏雄は、活花に生死の淡いを見ていたのだろう。
曼珠沙華何本消えてしまひしや 『疊の上』
つぎつぎに死ぬ人近し稲の花 『鷓鴣』
我とわが舌を舐むるにあやめ咲く 『〃』
白百合を臭し臭しと獨り嗅ぐ 『巡禮』
「エロス」と「タナトス」が見える。花は敏雄にとって、淡く悲しく匂う淫靡な生命として映っていたと読む。アラーキー語で言うならば、「エロトス」。まさに敏雄の花は「エロトス」である。
戦後における川柳・俳句・短歌/兵頭全郎
福壽草松にしたがいそろかしこ 麻生葭乃(1955年 福壽草)
今回のテーマである「花」にまつわる作品を探していたのだが、川柳・俳句・短歌とも戦後十年間にはほとんど花が出てこなかった。もちろん資料自体が各年それぞれ20句・首ずつなので偏りはあるのだろうが、逆に戦中(42~45年)の作品には頻繁に出てきており、当時の状況を想像することが出来る。つまり、まさに今戦争が行われている時にはどこか現実から目を背けたい逃避の視線があり、敗戦という事実のあとには貧困や虚無を見つめるよりほかなかったのでは、という具合である。そして、三分野ともに花が書かれたのが1955年、終戦からちょうど十年が経ったタイミングである。
「そろかしこ」とは手紙の候文に末尾「かしこ」、つまり「~候 かしこ」ということらしい。句集のタイトルになっているように「福壽草」の句は作者の代表句らしく、ネットで検索するとすぐにヒットする。松竹梅の松を男の姿に見立てれば、そこにしたがう福寿草は女であり夫唱婦随のすがたを表す、というのがおおかたの見方のようだ。だがそれでは「そろかしこ」を読めていない。この句はその夫唱婦随のすがたをある女性(作者?)が誰かに手紙で伝えている状況までを表しているはず。実家の親への便りとすれば安心して下さいということだろうし、夫婦不仲の知人へ宛てたものだとすれば「夫婦とはこういうものよ」という戒めの意があるのかもしれない。
川柳六大家の一人である夫・麻生路郎がこの句集の序で次のように書いている。
「明治末葉の女性川柳家で今日まで続いているのは僕の記憶では葭乃ぐらいなものである。葭乃にしても僕と結婚していなかったら遠うの昔にやめていたのに違いない。明治時代には大たい女性は短詩型文学では短歌へ走った。葭乃と同郷の与謝野晶子などもその一人だ。次は俳句、詩という順序で、川柳を作る女性と言うと変な眼で見られるような気がして手をつけるのを惧れたようだ。」
おそらくこの序列は、現在でも男女にかかわらず残っていると思われる。その一因として川柳においては「読解力」の圧倒的な不足にあると感じている。先に挙げたようにネットで検索してでてくるこの句の読みだけをみても、「そろかしこ」という言葉の解説と「夫唱婦随」というキャッチーな句のパーツには触れても、それらを一句の全体像として捉えた読みに至っていない。新聞の川柳欄の解説などをみても同様に単語の解説や部分的な解釈しかできていないものが多い。少なくとも私が読んでいる全国紙A新聞O阪版の川柳欄の選評はこんな感じである。明治時代から続くという「柳と俳・短」の差を埋めるには、単語の意味を知るというだけではなく、句そのものへの読解力の向上が不可欠なのである。
夜の芍薬男ばかりが衰えて 鈴木六林男(1955年 谷間の旗)
戦後の作品群を見ていると、俳句の中に川柳的感覚の句が結構出てくることに気づく。戦争という出来事への批判を根底に表現をすると、視覚からくる受動的感慨だけでなく内面から沸き立つ能動的な意思表明の意識が強くなることがあるのだろう。その延長上に掲出句のような作品があるのかもしれない。「立てば芍薬座れば牡丹~」というように、芍薬は美女の象徴である。「夜の芍薬」の妖艶さを描きながら「男ばかりが衰えて」という自虐的な感慨の吐露は、まさに従来の川柳的な書き方である。同句集にある
僕ですか死因調査解剖機関監察医 同
にも「~ですか」に自発的意志の表出が感じられるし、もちろん巨大な字余りの後半は川柳的くすぐりともいえる。これぐらいのユーモアは俳句にも元々ある、という反論を喰らいそうだが、今回資料などを読みながら得た率直な感想である。
何ごともなかったように一本の杉は季節の花をつけたり 山崎方代
(1955年 方代)
「花」を探すことに苦労したといったが、特に短歌には花を詠ったものが少なかった。この作品でも主役は「一本の杉」の方であり「季節の花」が杉の花かどうかも微妙である。一本杉は地名にもあるように地域の目印や象徴になる。先の東北大地震でも一本残った松の木が復興の象徴とされているが、「何ごともなかったように」とはおそらく戦火を逃れたのであろう「一本の杉」。そこに今となっては花粉症のA級戦犯ともいわれる春先の杉の花か、お盆の季節あたりに供えられる花か、いずれにせよその周辺を過ぎた時間を書いたものであろう。淡々とした書き様ながらそこにある時間と空間の大きさをたっぷりと含んだ作品である。
花は種類によってそれぞれに強いイメージや意味を纏っていることが多い。桜、菊、百合、曼珠沙華…、柳俳の音字数ではその象徴性が有効に働く場合が多いが、短歌の長さになると単語として色々と語りすぎるのかもしれない。作品自体が多くを語りすぎるものは概ね駄作と言えるだろうから、その辺りのバランスの取り方が傾向としてこのように現れているのかもしれない。
永田耕衣の句/池田瑠那
落花尊四方に乾坤白し黒し
かつて、この国に「いろ」は四つしか存在しなかった。明【あか】、暗【くろ】、顕【しろ】、漠【あを】の四色である。燃える炎の明るさが「明【あか】」の色彩感覚を生み、闇の暗さが「【暗】くろ」の色彩感覚を生んだ。顕【しろ】は、雪や白珠の色のように、見るものに何らかのはっきりした印象を齎すものとして感覚された。(語源的には「しろし」は「しるし」に通じる)そして漠【あを】は、先の三色に該当しない広範囲の色合いを指したという。
さて、掲句については耕衣自身が次のように述べている。※注
「(夫を亡くした知人を)一つ俳句で慰めてあげようと思いましてね。…(略)…
〈落花〉というのは生命を離れて散ってゆく凋落の印なんですが、落花の舞とか花びらがひらひらと宇宙的に舞うという状態を、アニミズムで人格化したいという気持ちがあったんです。加うるに私には造語癖がありまして、地蔵尊という言葉から〈落花尊〉という言葉を導きました。…(略)…「落花尊四方に乾坤白し白し」と作ったんです。…(略)…後で考えるに「白し白し」ではあまり曲がないじゃないかと思いましてね。白いものが散っている状態を見ると、影を曳いて黒く光を遮っているような状態の花びらが混じっている。それで、「白し白し」をやめて「白し黒し」にしてみたんです。すると明暗が現れて、光の中での物体の立体感が感じられるようになりました。」
このエピソードから察するに、句作の発端においては〈落花〉は生命を失ったもの、「凋落の印」としてイメージされているようである。だが耕衣宇宙のどこかに〈落花尊〉という語が閃いた瞬間、〈落花〉は現象としての生死を超えた世界へと漂い出て行く。落花尊は心にしろき(しるき)印象を齎すものとして生き生きと光を反し、風に翻る。挿入句的はたらきをなす「四方に乾坤」が、落花尊の舞う空間に無限の広がりを与えている。また「白し白し」から「白し黒し」と踏み込んだことで、〈落花尊〉はより「立体感が感じられる」もの、多元的な存在感を持つものとなった。この顕【しろ】と暗【くろ】、光と影の交錯は耕衣がしばしば強調する「生と死の接近痛感」を容易に連想させる。逃れられぬ暗
【くろ】い死の影が、落花尊の顕【しろ】さ、まばゆいばかりの神々しさを一層際立たせている。
思えば〈落花尊〉は花びらとして舞い上がり、地に落ちる迄の「途中」にある存在、これは「死」の「接近痛感」に晒されながら精一杯に生きる、すべての生命の喩なのではないか。耕衣知人の亡夫も〈落花尊〉として命を燃焼し尽くした存在であるし、我々一人一人も〈落花尊〉なのである。生きとし生けるもののあらゆる状態を肯い、讃える句。
注……村上護氏との対談(平成四年四月二十二日神戸市の永田耕衣邸にて)による。平成四年刊『永田耕衣』春陽堂俳句文庫所収。
戦後川柳/清水かおり
芒揺れ母の鏡裏の桔梗を見ずや 泉 淳夫
(1902年~1988年・福岡)
句集『風祷』(昭和62年)の巻末に収められた一句。
泉淳夫は芒の句を多く書いているが花の句は意外と少ない。少ないとよけいに探してみたくなるのが人間心理で、椿や芍薬の句語を見つけると小さな発見をしたような気分になった。
夢に泛く白い椿が私語きに
萩の寺 小面通す 萩ざかり
伎芸天女よわれ芍薬を眼にしたり
結局、句集の最後に配置された桔梗に注目した。桔梗は他に「桔梗寺夜は尼僧らの白猫放つ」という句もある。
掲出句、「芒」と「桔梗」の距離を考えてみる。現実にはどちらも秋の景で繋がっているが、ここでは普遍的な愛の比喩として置かれた桔梗が意味を持っている。この母という存在が作者の母、あるいは作者の妻の母性という現実から離れ、私たちを慈しむ全人類的な母性を感じさせるのは、「鏡裏」の句語がうっすらと人間臭を放ち、芒と桔梗の間に横たわる俗世の闇を見せるからだろう。「芒揺れ」という動きのある情景が読む者を孤独な芒原に立たせる。そこで淳夫は自身を含む私たちに「見ずや」と穏やかな問いかけをするのである。
あとがきによると「『風祷』の標題は、古来日本の歌謡が祷りを主体として来たことに思い至り、わが句も祷り歌であって欲しいとの願いから付けた。」とある。自分にとって川柳は祷りであるという明確な位置付けが執筆活動を総括する言葉のようにもとれて、この巻末の「見ずや」の問いかけへと淳夫の祈りのすべてが凝縮されていくように思えてならない。『風祷』発刊の翌年に彼は亡くなっている。
冬の男が廃坑の風何処でも聴く
被爆者手帳 炎昼を来て熱く示す
渺茫と壱岐に盲の魚棲むや
眼光鋭き水俣の魚縄に吊るす
蟹滅ぶざぶざぶざぶと耳を博つ 『風話』(昭和47年)
淳夫作品についてはその風土性が特筆されるので少しだけ触れておきたい。彼は九州を代表する川柳作家である。日本の産業を支えていた炭鉱の町が廃れていく現実や、被爆という史実、公害と生命の危機という深刻な社会問題が生活と隣合わせで淳夫の周辺にはあった。それはリアリズムと客観性を作句ベースに持つ淳夫に郷土九州を背景にした句を多く書かせることになる。土着性のある対象物が、淳夫の透徹した視線を通して精神風景として描かれるとき、作品は彼の美意識によって詩性の上昇をみせたものになっていく。地域や時代を投影した川柳で、彼の作品ほど美しく書かれたものはないだろう。
(戦後俳句史を読む)「遷子を通して戦後俳句史を読む」座談会④
- 出席者:筑紫磐井、原雅子、中西夕紀、深谷義紀、仲寒蝉(司会)
4.戦後の生活と遷子について。
筑紫は当初遷子のことを医師という恵まれた職業環境にあると思っていたが、医師である仲の話や(遷子によく似た)昭和30年代に開業した医師を父に持ったメンバーへのインタビューを総合して、当時の医師の生活は大変ったのではないかと述べる。
遷子は野沢の旅館を買い取って開業したが、この頃の開業には〈親か連れ合いの一族の支援がない限り独力では不可能であった〉と考え、遷子にとっては父が人助けのために手に入れていた土地家作が役に立ち、〈兄弟共同で開業するというのは合理的な判断だった〉と言う。
したがって『山国』『雪嶺』では〈魂の抜けたようにしか見えない父〉豊三だが、兄弟(富雄(遷子)、愛次郎)の進学、さらに開業の支援と一族に医師のいない中で家長としての重い責任を果たしたと評価する。
遷子の親への依存や苦しい生活を表わす作品として次のようなものを挙げる。
年逝くや四十にして親がかり 22年
田舎医となりて糊口し冬に入る 23年
正月も開業医われ金かぞふ 同
自転車を北風に駆りつつ金ほしや 同
暮遅き活計に今日も疲れつつ 同
その上で〈これこそ、ホトトギスの花鳥諷詠とは全く異なる、アララギ的な短歌リアリズムの世界であった。「鶴」的な境涯俳句ではなく、生活リアリズムに出発する(それは今全く評価されていない戦場リアリズムに根を持つものであるが)ことにより、独自の遷子の開業医俳句が生まれた〉と述べる。遷子にとって最大の誤算だったのは、研究者の道を取らなかったことではなくて、病気のため病院を辞めて開業せざるを得なくなり、大学に戻れなくなったこと、と言う。
さらに当時の開業医の生活を次のように描写する。
〈(遷子と同様旅館を買い取ったため)入院施設のある小規模な医院は、施設の狭さから医院と家庭は隣接して、公私のない生活の部分もあった。旅館構造を改築したものなので、病院の諸施設と家庭が混ぜんとしていたはずであり、建物の中には家族の個室と病室、看護婦の居室も混じっていたのではないか(昭和30年代は通いの看護婦ではなくて、中学出の女性を看護学校に通わせ資格をとらせて、住み込みであったと思われる)。医師の妻は入院患者の食事を作り、また看護婦たちとガーゼや汚れたシーツを洗濯などもした。そのほかに、毎月の保険請求事務も医師とともに妻が手伝った。当時は手書きで、そろばんを使っていた。『雪嶺』の中に保険事務が溜まったという句があることからも、面倒な仕事が多かった。他のメンバーから開業医の妻の中には過労で肋膜を患った例も報告された。看護婦も、中学を卒業してからすぐ住み込みで働き、看護学校へ通わせてやり、一人前になって患者と結婚するというようなアットホームな例もあった。〉
〈病院医師と開業医の違いは、患者と患者の家庭が一体となって関係してくる所にある。遷子の俳句の中で、病院勤めの時には見られなかった医師俳句が、戦後開業医の生活で顕著に表れるのもそうした理由である。また、往診をすれば、いやおうもなくその家の様子が見えることもあっただろう。〉
原は無回答。
中西は終戦後5,6年の期間として次のように言う。
戦中に肋膜炎を発病し、東大医学部からの派遣で函館の病院の内科医長の職に就くが故郷佐久での開業に踏み切ったことにより大学へは戻れなくなる。
百日紅学問日々に遠ざかる
故郷に住みて無名や梅雨の月
などの句には〈大学研究室を断念したことの悔いが燻っている〉と述べ〈戦争がなければ、肋膜炎にはならず、或いは大学に残れたかもしれないのである〉と指摘する。
弟愛次郎を誘って開業した後も
四十にして町医老いけり七五三
裏返しせし外套も着馴れけり
という句が示すように〈開業はしたけれど、患者も貧困にあえぎ、治療費も稼げなかった時期なのではないだろうか〉と想像する。
深谷は〈謂わば無一物で佐久に帰郷したわけであり、決して豊かとは言えないだろうが、それなりの生活(もちろん地域医療の最前線に立つ者として多忙ではあった筈だが)を過ごしていたのではないだろうか〉と述べ、さらに〈農村の貧しさがその作品に色濃く投影されているが、時期を下るにつれ高度経済成長の影響もみて取れる〉と言う。
仲は〈句集を年代順に読んでいくと佐久という貧しい田舎の村が町となり市となって行く様子が分る〉と言う。『山国』『雪嶺』には社会性俳句の原動力ともなった貧しさを詠んだ句が散見され、当時の佐久地方で盛んだった養蚕に関する句、自転車で往診する句、スケート(恐らく田んぼに張った氷の上での下駄スケート)やストーブなど寒い地域の生活に関わる句など多くはないが当時の生活を窺わせる句に触れる。
- 4のまとめ
筑紫は当時医院を開業すること自体が現在考えるよりずっと大変だったことを強調、遷子の父豊三の家長としての役割や開業間もなくの暮らしの困窮に触れた後、開業医としての生活が地域住民である患者の暮らしへの深い関わりを産み、往診などの医師俳句につながったことを述べる。
中西はやはり開業間もなくの生活の大変さに触れ、大学での研究を諦めざるを得なかった悔いが尾を引いていたと考える。
深谷と仲はそういった遷子一家を含む地域全体の貧困が高度経済成長とともになくなっていくことにも触れる。