戦後俳句を読む(第5回の1) ― テーマ:「風土」その他 ―

―テーマ:「風土」その他―

執筆者:土肥あき子・筑紫磐井・吉澤久良・藤田踏青・しなだしん・仲寒蝉・岡村知昭

稲垣きくのの句/土肥あき子

春近しふるさとの菓子手にとれば(『冬濤』所収)

 厚木に生まれ、関東大震災を機に座間へと転居。疎開先は信州小諸から一里半ばかり入った浅間山麓の農村だというが、その後の東京生活は赤坂、平河町、新宿という都心での転居を繰り返したきくのの風土性は、目を凝らさなければ見えてこない。きくのの俳句に「ふるさと」の言葉が入ったものは掲句を含め3句のみである。

数珠玉にうから失せゆくふるさとよ(「春燈」49年1月号)
ふるさとは相模大野の目借りどき(『花野』所収)

 先日、きくのの姪にあたる栄田さんに、きくのが眠っている墓所に案内していただいた。寺は、きくのの父親の生家である座間の先にあり、父親の生家は相模川で舟宿を営んでいたという。

 画用紙を広げたような梅雨空がはらはらと雨をこぼすなか、相模川のほとりの寺に着いた。見おろせば相模川、晴れていれば正面に大山が見えるという地に、きくのは眠っていた。両親や弟が眠るこの墓に、生前きくのは親族を率先して熱心に墓参していたという。

 山門を入ってすぐに大きな榧の木が茂っており、栄田さんは「子どもの頃、来るたびに実を拾わされた」と思い出すように大樹を見上げている。

 きくのの第一句集名は「榧の実」だが、集中榧の実どころか、樹木としてさえ見当たらず不思議に思っていた。晩年になり〈榧の木がかやの実こぼす墓まゐり〉(「春燈」53年1月号)と、真正面から詠んでいるが、きくのには最初からこの清冽な香りを放つ榧が、故郷を象徴するシンボルツリーだったのだろう。

 墓参には田んぼがずっと続く畦道を歩いて、土筆を摘んだり、蛙をつかまえたりしたという土地も、今ではカラフルな住宅が並び、すっかり整備されていたが、幅広い堰と大きな水門が残る相模川の姿はそのままであるという。周辺を歩いていると、古くからこのあたりに住んでいるという方があれこれと尋ねてきたが、それは特定の名字を言えば、どこそこの誰であるかがたちまち判別できるといったような、小さな集落特有の「くちさがない」環境であることをじゅうぶんに示唆するやりとりだった。

ひと、われにつらきショールを掻合はす(『榧の実』所収)
一瞥に怯みし伏目春ショール(『冬濤以後』所収)
人のくらしに立入り禁止花ざくろ(『花野』所収)

 人との機微にことさら敏感だったきくののこと。どれほど愛着を感じても、この地に永住することは決してできなかっただろうと確信した。

 きくのが徹底して都会を好んだのは、人間関係が淡白で済まされることがなにより大きかったと思われる。そして、都会で暮らすことは、つねに仮住まい感覚であり、家を放って旅に出ることになんの躊躇も感じなくてもすむ。〈青胡桃旅を栖といふことば〉(『冬濤』所収)と、涼しい顔で言い放つきくのの俳句に「旅」の文字が入っている作品は73句にものぼる。先のふるさとと比較すると、どれほどの比重であるかがわかる。

 しかし、それでもきくのの俳句にも確固たる風土は存在する。幼い頃育った環境に山があり水があり、心の景色に刻んでいたものがふと去来するといったそれらの表出の仕方には、捨てても捨て切れないという粘度はない。

 軽井沢を好み、夏になるたびに二ヶ月もの長い期間を過ごし、多くの句を残していることを思うと、きくの自身も自分のなかにある懐かしい記憶が消えてしまわないように、時折確認する必要があったのだと思われる。都会に暮らし、旅を重ねているだけでは、自分の芯が消えてなくなってしまうような不安を覚えたのかもしれない。

 軽井沢の山や川は、故郷を思わせ、それでいて自分との距離を置いてくれる最適の場所であったのだろう。軽井沢での作品は、馴染みの地であることの心安さが生んだ親しさで詠まれている。

山の日のすでに秋めけりパン買ひに(『榧の実』所収)
落葉松の秋風をこそ聴くべかり(『冬濤』所収)
栗育つ朝はあさ霧夜は夜霧(『冬濤以後』所収)
澄む水のゑくぼ生れては消ゆる(「春燈」昭和45年11月号)

 しかし、どれほど愛しい第二の故郷であっても、ひとわたり確認が終われば、「また来年」と手を振るように、ごくあっさりと帰京する。

 晩年、鵠沼に戻ったり、東京に転居したり、終の住処となる場所はどこにいっても、いつまでたっても持てないきくのに、風土性にこだわらなかった淡白さがここに災いしたのかもしれないと、思わず身につまされるのだ。

つき合ひもなき短夜のドアぐらし(「春燈」昭和57年8月号)

楠本健吉の句/筑紫磐井

枝豆は妻のつぶてか妻と酌めば

昭和49年。第2句集『孤客』より。

「風土」というテーマを選んでおきながら、憲吉には風土的な俳句は少ない。大阪の北浜に生まれたから、大阪が風土?そんなことはありはしない。初代灘屋萬助が天保年間に大阪で料理屋を開業、2代目が明治になってから長崎料理の味を加えて大阪今橋に料亭「灘萬」を開く。3代目は第1次世界大戦講和会議の日本全権大使である西園寺公望公爵の料理人として随行、灘萬を世界に知らしめた。経営の才に闌けていた3代目は、食堂やらスーパーマーケットなどの新機軸を打ち出し、大衆化路線も兼ね備えた。それが功を奏したのが戦後で、大阪の本店を、東京のホテルニューオータニ山茶花荘に移し、昭和61年東京サミットの公式晩餐会をこの山茶花荘で開催した。この時の首脳は、中曽根康弘首相、レーガン大統領、サッチャー首相だったとか。関係ないことながら、昨今のサミット首脳の何と小粒になったことか。憲吉はこの店のぼんぼんとして育ち、専務を務めていたから、憲吉の風土は「灘萬」だったと言わねばならない。伝統的でありながら、洒落ていて西洋かぶれで、大正デモクラシーのうきうきとした気分に乗った楠本憲吉は灘萬の中から生まれた男であったといえよう。憲吉の師の日野草城もそうした風土にある時期なくはなかった。

今回選んだのは、そうした外在的な風土ではなく、自らがつくり出した風土である。今見ても女性に好かれそうなタイプ、というよりは俳壇史上もっともいい男で金があった【注】から至る所で遊びまくり、自らも語り周囲もそれを知っていた。その家庭がどういう状況になっているかは想像するに難くない。先日も、夜中まで遊びまくってタクシーで自宅に帰ったが、奥方は先に寝てしまっており、憲吉先生は勝手口からそっと家に消えていった話をその場で見送ったお弟子さんからじかに聞いたが、これは「風土俳句」の舞台である東北より、もっと修羅の地であった。

掲出句、ある和睦が成り立って酒を酌み合っているが、いつ何時噴火が始まらないとも限らない緊張した平和である。つぶてとなって飛んでくるのは、言葉か、枝豆か。武器こそ違えここは戦場なのである。なお、どう見てもここで飲んでいる酒はビールである。成功した俳句は、何も描かなくてもそうしたディテールを浮かび上がらせてくれる。独特の言語世界が存在している。

だからこうした家庭風土俳句は枚挙のいとまもないほどであるが、みなそれぞれに成功している。

ヒヤシンス鋭し妻の嘘恐ろし 52年4月
ヒヤシンス紅し夫の嘘哀し  52年5月

言っておくがこれはよく見る「連作」ではない。心を新たにして俳句を読むのであるが、家庭風土がちっとも変わらないからついつい翌月も自己模倣的に同じテーマで詠んでしまうのである。嘘が充ち満ちている家庭、妻は恐ろしく、夫は哀しいと作者は言うのだが、元凶は99%自分である。第一、ちっとも深刻でないことが憲吉の反省のなさを物語っている。しかしこれが文学であるのだ。詩人や純文学者が認めてくれるかどうか知らないが、「黄表紙」「洒落本」の世界に通じる、2流志向の本格文学である。昨今の1流志向の末流文学(俳句)とは違うのである。その証拠に、我々は癒される。


【注】憲吉は俳書の収集家としても有名で、憲吉が死んだときは、蔵書が市場に出回るのではないかと言うことで、神田では俳句関係の古書が値崩れを起こしたという伝説がある。

時実新子の句/吉澤久良

罪あればあかつきの汗満身に   時実新子

今回のテーマは「風土」であるが、時実新子の作品はこのテーマにそぐわない。時実新子の作品で語られているのは、もっぱら作中主体の心理や心象であるからだ。外界の風物が登場しても、それは心理の喩であることが多く、外界そのものが対象になっているとはいいにくい。まして「風土」である。そういう事情でやむを得ず、今回はテーマ「風土」を大幅に拡大解釈し、精神的風土というこじつけで、情念の句を取り上げてみた。

掲出句は『有夫恋』所収。「罪」とは不倫の罪悪感である。「罪あれば」(「罪があるので」)と、理由説明になっているので、「あかつき」に罪悪感や自己嫌悪や悔悟の思いが湧き出し、冷や汗をかいている心理と読むのが順当だろう。しかし、「あかつきの汗満身に」は、性愛の行為そのものをも暗示しているようである。背徳であるがゆえに、「満身に」汗をかくまで溺れてしまうどろどろの性愛である。しかし、そこまで行くとあざといという印象が強くなってしまう。ともあれ、満身の「あかつきの汗」という皮膚感覚は、直感的肉感的であるとともに緊迫感を帯びており、刺激的な句であるのは間違いない。『有夫恋』がベストセラーになった理由はそのあたりにあったのだろう。

『有夫恋』がなぜベストセラーになったかという問題が、「戦後俳句を読む」の第一回鼎談(5月6日号)で取り上げられている。

堀本吟:なぜ、『有夫恋』は大衆にうけたかである。これがベストセラーになったのは、当時の女性観の中で、不倫の恋も辞さない悪女ぶりが、女性の秘める欲望を表したもの。新子の心の中の「自由の象徴」(虻曳)に私小説に近い大衆小説風だからこそ安心して感情移入できた。

北村虻曳:私の考えでは、大衆は私小説を事実の告白と受け止めていたのではないか。また「大衆の憧れ」と言っても複雑だ。反感に裏打ちされた憧れだから。女性の人気者の人気とはそういうことが多いのだ。私の内に大衆が住んでいるから分かるのだけれど。

堀本:読者は、時実新子を悪女に見立てることで遊んでいた、とは言えないか。半分ぐらいはほんとかな、とかおもって。一見川柳の中では新しくみえる新子の自己像の古さ(それが悪いというわけではない)が見えてくるのではないだろうか

新子の時代の背景には、《抑圧されている女性》という共通テーマがあった。女性読者にとって、抑圧されている者としての自分と作中主体との同質性が、新子作品への共感として働いたのは想像に難くない。書かれていることがどれくらい事実であると読者が思っていたかはわからないが(その点については、北村と堀本の想像も温度差がある)、読者の側に事実として読みたいという欲求があっただろうということが重要だと思われる。新子作品を読むということは、ヒロインとしての作中主体の行為を疑似体験することであり、疑似体験によるカタルシスの快感を得ることであったのではないか。とすると、事実かどうかの穿鑿は不要であるどころか、むしろ快感を半減させる野暮と化す。実生活での時実新子がどうであろうと、少なくとも作品中のことは事実であると取った方が読者の快感は増すのである。自分にはできそうもないことをしてくれるヒロインが普通の人であってほしくないのだ(ちなみに、『有夫恋』がベストセラーになり、時実新子がテレビ番組「徹子の部屋」に出演した際、「本当の私は貞淑で夫思いの妻です」というようなことを言ったと先輩から聞いたことがある)。そのような読者の心理を敏感に察知して、時実新子は自分の作った「時実新子像」を演じ続けるしかなかったのではないか。時実新子と読者との間にそのような牽制力が働いていたように思える。

しかし、〈大きな物語の崩壊〉後、すべてのテーマが共感を得にくくなっていき、《抑圧されている女性》というテーマも求心力の低下を避けられなかった。しかも、新子と新子以降の女性柳人による情念の句が隆盛を見たことの意味を、川柳では総括しきれていない。私小説的世界を相対化する視座は現在でも脆弱なのである。プロに転向した新子は、『川柳大学』という組織を運営していかなければならなかった。〈心の真実〉を標榜した『川柳大学』に集まってきた多くの柳人を前に、私小説的な情念の句を書くことは新子にとって信念であったのだろうか、ジレンマであったのだろうか。

近木圭之介の句/藤田踏青

海の鳴るランプが覚書的風情

このテーマの「風土」とは、心象風景の中での作者の原風景を意味しており、それが作品に裏打ちされたものを示唆しているものと考える。それは福永武彦がボードレールを例にとって「未来の詩集とは、彼の持つ世界Kosmosの全部の表現であり、これは最早一季節では無く、季節の推移によって生じる風土である。彼が詩人として得た精神の、また人間として得た人生の、精髄としての風景が、そこではパノラマのように一眸の下に眺め渡せる」「彼は紙上に定着される前の詩を書いていたのだ【注】と述べている事と相通じるものがある。

 掲句は昭和23年の作品であり、その背景には前に述べた下関、門司での生活がある。よって鳴るのは海鳴りであり、船の汽笛であり、海峡を超えて聞こえてくる機関車の汽笛であり、ランプのチリチリと燃える音でもあろうか。戦後復興の玄関口でもある海港ではあるが、まだまだ戦傷の思いは漂っている。その忘れるはずもないものをメモする如く、「覚書的風情」と突き放した表現にする処に圭之介の俳人としての知的方法論が垣間見られる。この様な表現は下記の句の如く多くみられる。

砂丘、非具象の月が出ている          昭和37年作
朝 卵が一個古典的に置かれていた       昭和59年作

「非具象」も「古典的」も「覚書的」同様、その主眼とするものが意味性というよりもむしろ絵画的描写の手法に傾いているように思われる。更に各句ともに画家・圭之介によって描かれた一幅の画に置き換えることも出来るのではないか。また「言葉を点のようにおいて、その点との構成が、全体的に朧化する方法で、掴みどころのない影像を、何とか形象にしようとする探求を積みかさねている作家」として井上三喜夫が圭之介を評しているのもその描写法に通じるものがあり、頷ける。言葉の構成による形象化と言えよう。

この閑かな時間に正しく海に向いている椅子   昭和26年作
汽船が灯る菜畑受胎              昭和28年作
漁夫の手に濃い夜があるランプ         昭和30年作

 シャッターチャンスの如く時間を一瞬に切り取ったような描写であるが、やはりその裏には微かな時間の揺れがあり、その対象の中で反対に自己が揺すぶられているかの如き感覚があり、詩的な流離感も漂っている。その詩的感覚の由って来る所以は地方都市のある種のプチ都会的感覚を伴なっているからでもあろうか。

霜がかじ屋のまえ朝の道、もう鉄をうつ      昭和24年作
互に鉄うつ男である遠く海のたいらにある       同
かじ屋のぽっと火が秋の遠くまで見ゆる夜る      同
かじ屋のにわとり道にいておやじと村の人達      同

 かじ屋を点景にした連作である。縦軸に一日の時間の流れが、横軸に季節の推移が交叉する処に作品を成立させ、意識的に複層的に構成したものである。「朝の道」「海のたいら」「ぽっと火が」「にわとり、村の人達」等はかじ屋を取りまき、包み込んでいる存在でもある。「風土」とはその風景に溶け込んだ人間の生活そのものなのかもしれない。


*「ボードレールの世界」福永武彦・著 平成元年 講談社刊

上田五千石の句/しなだしん

上田五千石、本名・明男は、昭和8年10月24日、父・傳八、母・けさの三男として東京に生れる。

生家の代々木上原では満ち足りた幼年期を過ごすが、戦時に信州へ疎開し、その後細かく長野、山梨、静岡と転居する。その間、昭和20年には東京の自宅を空襲で失う。

五千石の作品には、この戦時の身の上から“流寓(りゅうぐう)”を使ったものが散見される。流寓とは放浪して異郷に住むこと。句集『田園』では〈流寓のながきに過ぎる鰯雲〉がそれである。

そんな流寓の中でも明男は、文学に、剣道に、遊びにと少年期を謳歌する。

昭和22年、明男14歳とのとき、静岡県立富士中学校(現、富士高校)2年に転入し、校内文芸誌「若鮎」の制作に加わり、その「若鮎」に自ら次の句を発表する。

青嵐渡るや加島五千石      明男

著書『春の雁』(*1)でこの句に触れ、この句が校内で多少評判になったと記し、「加島五千石」とは、江戸時代、富士川のデルタ地帯に造成された新田・五千石のこと、と述べている。

さらに、この句を引っ提げ、富士宮浅間大社で開かれた水原秋櫻子の句会に出かけたが、句会はスコンクであったこと、そして秋櫻子がこの「加島五千石」というものを知らなかったのではないか、などのことを書き連ねている。

もうお分かりの通り、“五千石”という俳号は、この句による。

父・傳八は、「大人の句会に勇を鼓して出たことを賞し」て、この「五千石」の句は「天下の秋櫻子の目をくぐった句、これを縁に俳号を“五千石”にせよ」と言ったのだという。

ちなみに、父・傳八も俳人で、俳号を古笠(こりゅう)といい、明治30~40年代もっとも俳句に熱中したとのこと。同書の別な項には次のように記されている。

内藤鳴雪選『遼東日報』に、

青嵐渡るや国のあるかぎり    古笠
梁山伯八百人の夜長かな     〃

というスケールの大きな句を発表している。

さて、この古笠の一句と、先の明男少年の「五千石」の句を並べてみよう。

青嵐渡るや国のあるかぎり    古笠
青嵐渡るや加島五千石      明男

そう、「青嵐渡るや」が同じなのだ。そして句の景の大きいところも似ている。

遡れば、上田家では折に触れて句会が開かれ、明男も幼年の頃から指を折って作句した、と『春の雁』にも記されている。この一致を見ると、子は親を見て育つ、との思いをあらたにする。

なお、五千石の風土性といえば、〈虎落笛風の又三郎やーい〉を含め、賢治の盛岡を挙げるのもひとつの考えであろう。しかし私は、少年期を実際に過ごした山梨がやはり五千石の風土にふさわしく、五千石としての正式な発表句とは云えないが、俳号の由来となったこの「五千石」の句こそが、五千石の風土の根底と云ってよいではないか思うのである。


*1 『春の雁―五千石青春譜』1993年10月24日邑書林刊 (10月24日は五千石の誕生日)

赤尾兜子の句/仲寒蝉

無電とぶ都会むらさき色の餡をねる   『虚像』

 兜子の俳句ほど「風土」という言葉のそぐわないものはない。実際には彼は兵庫県揖保郡網干町(現在は姫路市網干区)の出身であるがその俳句にふるさとのにおいはない。昔は瀬戸内海に面した漁業の村だったようだが現在の網干は臨海工業地帯である。その意味では彼のとりわけ『蛇』『虚像』の頃の俳句から受ける無機質な印象はこのことと無関係ではないかもしれない。しかしその後は竜野中学校(現竜野高校)に入学、竜野は現在たつの市となっており三木露風を出したことで有名な城下町である。また中学卒業後には大阪外国語学校中国語科に入学(先に書いたように同級の蒙古語科に司馬遼太郎、一級上の印度語科には陳舜臣がいた)しているので、出征までの兜子は網干→竜野→大阪を本拠としたことになる。

 また戦後には京都大学に入り卒業後は神戸に住んで毎日新聞に就職したので、『蛇』の後記に自ら記すようにこの句集の時代は大阪→京都→神戸と変遷する。一時大阪に勤務し結婚後晩年までは神戸に住んだようなので兜子のふるさと、ゆかりの地と言えば神戸ということになるが彼の俳句にはやはり神戸のにおいはしないのである。関東の人からすれば「要するに関西の人」となろうが関西の人間からすれば大阪と京都、神戸ではかなり違う文化圏である。ただ近畿であることと都会であることが共通点であろうか。

 そう言えば兜子の俳句は極めて都会的だ。都会的とはどういうことか。勿論素材ということがある。廃墟、工場、コンクリート、娼窟、電柱、劇場、マンホール、暗渠、港、高架、場末、ビル…『蛇』から都会を思わせる言葉を拾ってみた。だがこれらを含む俳句は全体の1割にも満たない。彼の句が都会的であるのは素材の点だけからではない。「都会」の対義語は「田舎」であり「都会的」の対義語としては「野性的」が一般的だろう。従って都会的とは「あかぬけした、洗練された、洒落た、優雅な、近代的な…」ということになる。ただ兜子の俳句はここに並べた「都会的」の属性とはちょっとずれているように思われる。対義語の「野性的」に含まれる「力強さ、荒々しさ」をも内包しているからだ。例えば『蛇』の京都時代の

鉄窓の奥振向かずズシリと垂れ (これは兜子の初めての無季俳句)
暗き梯子寡婦のぼりきる真夜の星
黒犬嗤ふ幾万の枯葉ふみつくし

などにその「都会的」の萌芽がみられる。ここに詠まれた光景はちっとも垢抜けておらず優雅でもない。むしろ『ブレードランナー』や『北斗の拳』に出てくる核戦争後や環境汚染の進行した近未来の都会像に近い。しかしこういう都会もまた都会なのである。なぜなら田舎では決してこの種の汚さ、冷たさは見られないから。田舎にあって都会にないもの、それは自然である。兜子の俳句にも自然は登場するが貧弱で如何にも飼われているような自然ばかりだ。この頃の彼の俳句は人手の入っていない大自然から最も離れたところにある。

 貧しいと言えばここに出てくる人間もまた貧しい。それは昭和20年代の、日本がまだ戦争の打撃から立ち直り切れていない時代だからであろう。だが昭和30年代に入っても、例えば『蛇』の神戸時代の

濁音疾風のごと越冬工場の靴乾き
燈をあび切つて霧の電柱油弾く
ブランコ軋むため傷つく寒き駅裏も

のように都会ならではの暗くて汚い、場末的な風景が続く。そう、先程兜子の俳句を「都会的」と言ったがむしろ「場末的」と言った方がぴったりくるかもしれない。日本全体が場末的な時代だった。洗練には程遠く猥雑で、しかし活力に満ち明日の一条の光を信じていた。

 そろそろ掲出句にかかろう。『虚像』の俳句は先に述べたように表現(字数、イメージ)において『蛇』のアグレッシブな面をさらに推し進めた感がある。『虚像』自体は句数が168句と他の句集と比べても現在の感覚からしても極端に少ない。掲出句は3章に分けられた第2章に当たる「轢死の葡萄(昭和36年)」に収められている。この章には他にも

釦のような老人寝室の海胆は流れ
廃駅にうずまる乳壜白眼秘め
轢死者の直前葡萄透きとおる

と読み解くことが困難な俳句が並ぶ。恐らくは作者の身の周りの出来事や光景に取材しているのであろうが一部分を強調したりイメージの置き換えが行われたりしているのでそのまま読むと非現実的な場面が出現する。

 兜子にとっての風土とは、先程から述べてきたように都会、それも場末的な都会であった。その意味で句の中に「都会」の語を使った唯一の句である掲出句は象徴的と言える。作者はまず「無電とぶ都会」と都会を規定する。無電とは無線電信のことで20世紀初頭のマルコーニによる実用化以来とりわけ両大戦を通じてその有用性が確立、今では衛星通信などもあって必ずしも都会特有ではないのだがこの当時はゴジラ(昭和29年封切り)、東京タワー(昭和33年竣工)の時代であったから無電=都会と考えたのかもしれない。

判らないのは「むらさき色の餡をねる」である。実際に紫の餡だとすると沖縄の紫芋を連想してしまうがそうではあるまい。源氏巻という菓子があるように小豆を練った餡は紫色に見えなくもない。源氏巻は津和野の菓子であるが神戸も伝統的なのからハイカラなのまでお菓子には事欠かない。だからここは無電の電波が飛び交う一方で昔ながらに餡を練ってお菓子を作っている都会の様子を描いていると読むべきだろう。一方で「むらさき色の餡」は花街などのネオンサインのことと取れなくもない。ちなみに売春防止法制定は昭和31年、赤線の廃止は昭和33年である。餡を練るようにネオンの入り乱れる都会の風景、ちょっと無理があるか。

青玄作家(日野晏子)の句/岡村知昭

夫の過去わが過去月に照らさるる

 「日野晏子遺句集」(平成7年)の昭和21年~昭和30年の章より。一句に書かれた言葉そのものは、長年連れ添った夫婦の感慨として一読すぐに納得できるものなのだが、肝心の「月に照らさるる」過去が夫と自分自身のそれぞれのものであることに気づくとき、1句に潜んでいたかすかな陰翳を次第に帯びてくるように思われるのが、読んでいて興味深く感じたところである。夫の過去にいったい何があったのか、もしくは自らの過去に何事が起こったのかはともかくとして、輝ける月光の下に曝け出されたふたつの過去が、いま互いに寄り添うように佇んでいることに対する妻としての喜びが、かすかな陰翳として1句において彩りを添えているのだ。

 「風土」というものを自らが拠って立つ場所、更には「原点」という風に読み替えてみるとき、草城を慕って「青玄」に集まった若き俳人たちと晏子とは同じ「日野草城」という俳人を自ら拠って立つ場所として選びながら、草城に対する実際の立ち位置においては微妙な違いを見て取れるように思う。ほとんどの「青玄」の若き俳人たちにとっての草城へのまなざしは、戦前に新興俳句の雄として「旗艦」に拠り、「ミヤコホテル」に代表されるモダニズムあふれた作品の数々を発表した俳人の肖像へ向けられたものでもあり、戦後の病床生活を余儀なくされた草城の姿を目の当たりにしても深い思いは決して揺らぐことはなかった。彼ら彼女たちにとってまぎれもなく草城の作品こそが自らが拠って立つ原点であったわけである。

 一方、晏子にとっても草城の存在の大きさは計り知れないものがあるのだが、その原点となっているのは、いまこのときに自らが看護している夫そのものの姿である。新興俳句の雄としての夫は俳句を作っているとは知っていながらもどこか遠い存在であり、ましてや大いに物議をかもした連作「ミヤコホテル」に登場する幼な妻に擬されたことなど、彼女にとってはまったくの遠い場所で起こった出来事でしかなかった。新興俳句の雄であった草城を知らないままの晏子にとっては、俳句を作るにあたっての自ら拠って立つ原点はあくまでも目の前で病に臥せる夫であり、その夫とともにある自分自身の姿である。ある時は俳句を書くようになってはじめて知った夫の俳人としての顔へ驚き、またある時には自らの俳句を真剣なまなざしで読もうとしている夫の姿に深い喜びを得る、そのような日々の連なりこそが「日野晏子」という俳人の原点なのである。

 あまりにも作者の伝記的な要素を強調し過ぎるのは作品鑑賞にはふさわしからぬ振る舞いであろうとは承知の上で、それでも草城と晏子の夫婦が歩んだ道のりを踏まえて掲出の1句を見直してみると、月光の下に曝け出される「夫の過去」とはもしかすると新興俳句の雄だった頃の草城の姿ではないだろうかとの思いにかられる。彼女は俳句という月光によって夫の過去と現在をくまなく照らし出し、これまでの自分自身が知り得なかったもうひとりの夫、俳人「日野草城」に出会った。過去も現在もくまなく照らし出された病床の夫に向かい合う彼女の姿が深い官能的な喜びに包まれているようにすら見えるのは、互いの原点を曝け出しあう関係となった夫と自分との間に、確かな交感のときが訪れているのを全身でくまなく感じ取っているからではないだろうか。

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One Response to “戦後俳句を読む(第5回の1) ― テーマ:「風土」その他 ―”


  1. 戦後俳句を読む(第5回の2) ―テーマ:「風土」その他― | 詩客 SHIKAKU - 詩歌梁山泊 ~ 三詩型交流企画 公式サイト
    on 7月 1st, 2011
    @

    […] 仲寒蝉が、「戦後俳句を読む(第5回の1)」で赤尾兜子(本名は赤尾俊郎。大阪外語専門学校、のちの大阪外国語大学に学ぶ)について「兜子の俳句ほど「風土」という言葉のそぐわ […]

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