近木圭之介の句【テーマ:雷】/藤田踏青

山脈に午後は遠雷が封書が濡れて着いた         昭和52年作  (注)①

前年に師の「層雲」主宰・荻原井泉水を失っており、まだその余韻が残っている様である。この山脈は中国山地であろうが、その遠雷が示唆するものは吉凶いずれであろうか。または層雲内部の今後の諸事情でもあろうか。「遠雷が封書が」濡れて着いたという処が意味深である。同じ時期の作に

ずっと置いてある封書の中はいつも黄昏だった      昭和52年作   (注)①

というのもあり、納得できない色々な模様が窺われる。掲句に対して、濡れた郵便物で思いだされる自由律俳句としては

あいたいとだけびしょびしょのはがきがいちまい   平松星童(昭和22年作)

というのがあるが、これは戦後すぐの青春俳句であり、表現の直接性が際立っていたため有名になった作品である。

圭之介の「遠雷」関連の句では次の様な作品もある。

遠雷だポプラ並木の向うをごらん           昭和60年作   (注)①
烈しく遠雷 つめのびしかな             平成11年作    (注) ②

前句は語りかける様な写生句であり、遠雷が意識に入り込んできているが、後句は自己沈潜の句であり、遠雷は自己と距離を置いた対象としてのみ存在しているに過ぎない。

軀になにかが いなずましていた           昭和50年作    (注) ①

特に具体的に何も語っておらず句としては少々弱いが、沸々とふっと湧き出すものがあったのであろう。それが詩的に昇華されたものが次の詩作品の抜粋である。

Ⅱ 茫々 生の夏が来て 夏が去り
実在を見おとす肉塊 地にあふれ
いなずまに似て まぎれなく荒野を走る

Ⅳ (稚拙な生はすべて軌道より離脱)
  不幸にもその衝撃 おのれを傷つけ
  いま 体内の熱量を喪失させる                  (注) ③

季節の歩みの中で、いなずまの様な生そのものを示す夏という時代は今は過ぎ去り、傷ついた人生の中で無用の時に沈んでゆく自己を見つめている姿がそこにある。

(注)①「ケイノスケ句抄」 層雲社 昭和61年刊

   ②「層雲自由律2000年句集」 層雲自由律の会 平成12年刊

   ③「近木圭之介詩画集」 層雲自由律の会 平成17年刊

       <パレットナイフ 33>抜粋

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