自由詩時評 第30回 福田拓也

 野村喜和夫の詩集『ヌードな日』(思潮社2011年10月20日)の「パレード」と題された詩群に於いては、「肉」という語が、例えば「それ」や「あれ」という語の如く、シニフィエに対するシニフィアンの余剰でありどのような事物をも指示し得るとレヴィー=ストロースの指摘する「浮游するシニフィアン」として機能しているかのようだ。実際、これらの詩群には、言語の象徴化作用を逃れるような得体の知れない何かを指示する「第1の肉」から「第101の肉」までが現われる。

第18の肉、それは死ぬまで逆立ちしている、たぶんほんの小さな問題のために、あるいは亡霊となって羽ばたくおのれの未来を夢みながら、(「パレード4」)

パレードだ、第29の肉がみえてくる、そのあまりに特異な存在様態は、やばいクスリをキメたときの幻覚かと思える、それほど頭を無頭のように揺らして、意味不明に踊りまくる、もしも捕獲できるならば、強い柑橘系の臭いがするだろう、(「パレード6」)

第33の肉は笑う、まるで地面から口が生えてきて笑っているかのようだ、このあからさまにナンセンスな生態にもやがて光が当たり始めるだろう、({パレード7})

 ごく一部を引用したが、このように、名付けがたいものたち、言語の中にはっきりした場を持たぬ亡霊のようなものたちをすべて一様に「肉」と名付けることにこの詩集の試みは存している。101の「肉」によって名付けられた、そこここを浮游しているようでありながら、言語による概念化が不可能である得体の知れぬ何かは、言語という象徴的秩序のうちに空いた穴・欠如であると言うことができるだろう。そして、このような穴・欠如を「肉」という語でしか埋められないという言語の無力を露わにするイロニーもこの詩集にはあるかもしれない。いずれにせよ、すべてを言語化・概念化することはできないという言語の無力を顕在化する穴・欠如を「存在という名の、隠れ場もないヌードな砂地」(「パレード10」)として露わにすることにこの詩集の目指すところの一つはありそうだ。「そぎ落とされたのだ、//すべてはさらけ出されている」という言葉で「パレード7」は始まる。また、執拗に繰り返される「ヌードな日、//そぎ落とされたのだ、」(「パレード1」)という言述もそのことを示しているだろう。

 「肉」という語は、数ある語のうちの一つでありつつ、同時に言語によって表現できない何かを名付けようとすることにより象徴的なるものの穴・欠如を塞ぐ役割ももっているという特権的な二重性を帯びている。詩集『ヌードな日』の中では、「パレード13」という詩に書かれた「第99の肉」がこのような特権的な二重性を帯び、「それに対して自分自身の要素であるということが起こる多数的なるもの」(アラン・バディウ)として現われている。

第99の肉、そう、いまや第99の肉だ、それはみずからをむきだしにしてボレロを踊るのであるから、するとそのまわりに、ひとつまたひとつと、第1の肉や第5の肉があつまってくるのであるから、第7の肉や第11の肉や第23の肉があつまってくるのであるから、第9の肉や第28の肉や第41の肉や第56の肉があつまってくるのであるから、そうして一緒になってボレロを踊る、踊るのであるから、

あるいは暴動ノススメ、
ジャパンにも、
暴動ノススメ、

中心を占める第99の肉は次第に紅潮し、動きの激しさを増し、陶酔の状態となって、それを周縁の肉にも波及させてゆくが、激しい動きのあまりにというべきだろうか、第99の肉は、いまや眼にみえない、

 「ボレロを踊る」ということ以外にとりわけ特徴もない「第99の肉」が、他の「肉」たちと同じ一要素でありながら、あるいは殆ど存在感のないそれ以下のものでありながら、同時に他の「肉」たちが「あつまって」きて「一緒になってボレロを踊る」場としての役目も果たしている。「第99の肉」のこの特権的な二重性にこの詩集による一つの壊乱的な出来事の産出を見ることもできるかもしれない。そのことにより、『ヌードな日』という詩集を一つの「暴動ノススメ」として読むことも可能になるのではないか。

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