五千石の「虫」の句といえば〈啓蟄に引く虫偏のゐるはゐるは〉がある。この句は昭和五十六年作、第三句集『風景』所収。季語「啓蟄」は動きようもないが、理が勝っているのは否めないし、このような句の造りはありふれているように思う。だがこの種の句は早く作ったもん勝ち的なところがあって、これはこれで五千石の一つの代表句として存在すべき作品といえる。
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今回の「虫」の句で選び出したのは次の二句。ともに第一句集『田園』所収。昭和三十二年作。
羽繕ふ間も黒蝶の華麗な生
鉛筆で火蛾の屍除くる貧詩人
一句目「羽繕ふ」の自註には〈「華麗な生」などと、映画の題まがいの語句が臆面もなく使われている。人生のテーマは愛と死だ、とか口にしていた観念的で、しあわせな時代〉とある。
二句目「鉛筆で」の自註には〈詩人を志すことは、貧乏を覚悟することであるが、貧乏していれば、立派な詩が書けるかといえば、そういう訳にはいかない〉とある。
この二句の制作年、昭和三十二年は五千石、二十四歳。上智大学文学部新聞科を卒業した年。生家の「上田テルミン」を継ぐべく、東京鍼灸学校三年課程に入学する。鍼灸師の修行の傍ら、「氷海」に拠り、精力的に俳句に打ち込んだ時期である。自註にある通り、貧しいと感じられる暮らしぶりであったのだろう。だがそれゆえに胸中には熱い情熱を抱いていたに違いない。
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この二句の面白いのは、まず非常にエモーショナルで詠い過ぎである点。これは一句目の自註にある通りの、そういう年齢、時代だったこということだろう。
次に、五千石が自註を書いたのが、昭和五十三年一月、四十六歳であったが、この頃でも自らを「詩人」であるという認識でいること。掲句の二句の制作年、昭和三十二年と意識は変わっておらず、「俳句」という「詩」を「詩人」として作り続けていたのである。
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冒頭の〈啓蟄〉の句は既に手練の俳句(決して悪い意味ではない)になっているが、掲出の昭和三十二年の二句からは真っ直ぐに詩を作る意識しか見えて来ない。