戦後俳句を読む (22 – 1) ―「幼」を読む― 上田五千石の句 / しなだしん

涅槃会や誰が乗り捨ての茜雲   五千石

第四句集『琥珀』所収。昭和五十八年作。

五千石はこの句の制作年で五十歳。中年も終りの時期で、俳句の面でも成熟期にあたり、今回のテーマ「幼」とは無縁にも思える。

この句の季語である「涅槃会」は、釈迦入滅の忌日の陰暦2月15日に行う法会。寺によっては月遅れの3月15日に行なわれているところもある。だが実は、釈尊が入滅した月日は実際には不明で、2月15日は中国で決められた日付であるようだ。

掲出句は一見美しい茜雲の句で、詩情もあるように感じる。読者によっては渋い句、と感じる向きもあるだろう。「誰が乗り捨ての」は、季語の「涅槃会」から釈迦を思い浮かべるかもしれない。ひいては亡くなった人をイメージする人もいるだろう。

ところで、掲出句には“もの”として認識できるのは「雲」と、空間としての「涅槃会」である。物質的な“もの”はない。ものに拠らない詩は、どこか幼さがあるように思う。

だが、この句の幼さはそれだけではない。「乗り捨ての」の部分だけに着目してみると、「乗り捨て」ということは、乗っていた誰かが去った、ということになる。掲出に幼さを感じるのはこの「雲に乗る」という発想かもしれない。この発想は古典的なもので、雲に乗る、というのは男がずっと持ち続ける詩心とも言えるのではないだろうか。

そういう意味でも季語である「涅槃絵」が、単なる古典的な男の詩に陥るのを防ぐ役割を果たしている。

娘の日差子氏によれば「俳句をやると幸せになれるよ」が五千石の口癖だったという。俳句を信じていた五千石であろう。母に全幅の信頼を寄せる子のように、俳句を信じる。「信じること」はどこか無邪気だ。幼さは大の男にも、男の作る詩にも潜んでいる。

戦後俳句を読む(22 – 1) 目次

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