『トンボ消息』より 手塚敦史
ひと月、あけると 粉薬を口にした
彼女ののみのこしのコップに
秋の日のコップに
少年が、
つま先立ちで
馬を洗っているのが見える
おもてでは風が吹き、
ヒイラギの葉が揺れて、枝をふって、
花はしずかに咲いている
わたしは、もう分からなくなる
馬と少年が、
ガラス製のものになっていく
病室の彼女は、先程から、
眠っている
ベッド脇にあたらしく、
きみのすいさいがすいさいがすいさいが
おぼえている
トンネルで三つになった影もある
ひと月、あけると
わたしは、もう分からなくなる
この世にいます
わたしたちの 先の、
こわれやすい光のこと
カーテンを揺する、風は
さやかに吹き、
前髪はこまかく、流れて行った
あの日
Air〔つぶたつ
かさなる陽は 風のたわめた路地に、人々の くるおしさを
配分している 遠からず
その息の、クーピーを塗ったようなこころ覚えに 沈潜するであろう。一九九三年
甲府盆地の高まりゆく空に 身元不明の誰かが ふりかえっては、はじける
…つぶたつ蕊までその人の仕種が 寄せて行って、名の
(『トンボ消息』ふらんす堂、2011年)
トンボは私たちにとってたいへんポピュラーな遊び道具でした。
たくさんいる。つかまえやすい。分解しやすい。などといったトンボの性質が人気の理由です。
私たちはいろいろなやり方でトンボの羽根をちぎりました。
半分だけちぎる。全部ちぎる。片方だけちぎる。折り曲げる。などとさまざまに羽根を変形させ、その後トンボがどうなるのかを観察しました。
ほかにも、頭をもぐ。胴体を裂く。二匹のトンボのからだを……とトンボを使った遊びをあげればきりがありませんが、だんだん気味が悪くなってきたのでこの辺で終わりにします。
私たちの傷つけたトンボは、その損傷の度合いが激しいにも関わらず、しばしば死なず、そして飛んでいきます。
しばらくして落下するものもあれば、ずっと遠くまで飛んで見えなくなるものもいます。
見えなくなったトンボがそれからどうなったのか、私たちは知りませんでした。
手塚敦史さんの三冊目の詩集『トンボ消息』を読み、そのタイトルから私が思い出したのは、だいたい以上のようなことです。
念のため断っておくと、『トンボ消息』の中に何度かトンボは登場しますが、トンボを痛めつけるような描写はありません。
トンボだけでなく、ひとやものが激しく壊れるようなことは、少なくとも明示的には、あまり起こらないような詩集であるといっていいと思います。
私は、私自身のトンボについての思い出を、たまたま思い出しました。
詩を読んで何かを思い出す、という体験は決して特別なことではありませんが、手塚さんの詩には、どこか読み手の思い出を強く喚起させるところがある、と私は感じています。
ここに紹介した部分からあえて抜き出すなら「おぼえている」「あの日」「幼かった頃の」「一九九三年」といった言葉のせいでしょうか。
たしかにそれらも一因かもしれません。
けれどもそういった個々の語句だけでなく、言葉の連なり全体に思い出を刺激する作用があるように思えるのです。
「クーピーを塗ったようなこころ覚え」と書いてありますね。
クーピー。(これもまた思い出に直結する言葉ですがそれはそれとして)手塚さんの詩は、クーピーで書かれた絵のような、どんなに強い筆圧で、どんなにたくさんの色を複雑に重ね合わせようとも、決して濁ったり空間を塗りつぶしたりしない、驚くべき淡さを備えていて、私はそれに魅了され、そして何かを思い出すのです。