日めくり詩歌 俳句 高山れおな(2011/6/24)

十四番 狂女

左勝

狂女帝跨りたがる秋の山 宮入聖

水球の男と女と狂女かな 攝津幸彦


攝津幸彦の同世代のライヴァルは誰だったのかと考えると、常識的には坪内稔典なのであろうが、宮入聖もまた有力な候補となろう。全くの同人誌育ちだった攝津は、結社育ちの有季定型俳人に妙なコンプレックスを抱いていたらしいが、飯田蛇笏晩年の弟子として有季定型の話法を完璧に身に付け、その上で塚本邦雄や髙柳重信の前衛的審美主義をとりいれた宮入の作風は、攝津にとってなかなかに脅威だったのではあるまいか。

攝津が、一九七三年の第一句集『姉にアネモネ』(青銅社)から、四十九歳で没する一九九六年の『鹿々集』(ふらんす堂)まで七冊の句集を出版しているのに対し、俳句とのかかわりにブランクのある宮入が第一句集『聖母帖』(書肆季節社)を出したのは一九八一年とやや遅れる(それでも三十四歳の年だが)。しかしその後は、『千年』『遊悲』『黒彦』『月池』『鐘馗沼』(いずれも版元は冬青社)と、八〇年代のうちに計六冊の句集を矢継ぎ早に世に送っており、別に二十代の旧作を纏めた『夏霊』という句集もある。さらに第七、第八句集として『昭和鬼』『撫子天使』の刊行が予告されていたが、これはおそらく幻に終わったはず。一九九三年六月刊行の「俳句空間」第二十三号の「特集 現代俳句の可能性――戦後生まれの代表作家」に登場したのをほぼ最後として、宮入の消息はふっつりと途切れてしまうのである。同じ一九四七年生まれの二人は、二十代のうちに作者として一家を成し、それぞれ七冊の句集を残して四十代で足早に退場したことになる。

さて、攝津幸彦の右句は、「水球」という珍しい球技を詠んでいる。英語名はウォーター・ポロ。七人ずつの二チームが得点を競うこのゲームは、珍しいといってもオリンピックの競技種目にもなっている。ただ、正式なスポーツ競技では男女が混じってプレーすることはないだろうから、これはプールの中で男女がビーチボールを打ち合って遊んでいるのを、水球と言ってみたまでかもしれない。というような分析はしかし、現実を描写しようとしているわけではないこの種の句に対しては、あまり意味がない気もする。

この句の面白みはもちろん中七「男と女と」から下五「狂女かな」への肩透かしを食わせるような急転回にある。能の狂女物のことを思えば、この「狂女」は意外に由緒正しいキャラクターということにはなるものの、男・女・狂女の羅列はなにやら“シナの百科事典”風に均衡を欠いており、読者を不吉な笑いに誘う。はたして彼女は一目でその狂疾がわかる外見や振る舞いをしているのであろうか。それとも見たところ他の人々となんの違いもなく嬉々として水球にうち興じているのに、本当は狂っているというのだろうか。半裸の男女が、激しく水しぶきをたて、喚声をあげながら球技に熱中するありさまは、少し視点をずらせばそれ自体が狂気の沙汰でないこともない。夏の陽光と水面のきらめきに満ちたポップな書き割りを背景に、正気と狂気の境も曖昧になってゆくようだ。この句には、同じ句集にあってより有名な

階段を濡らして昼が来てゐたり

にも通じる、明るさの中への明るさゆえの死の意識の侵入、というモティーフを見て取ることが出来るだろう。

宮入聖の左句は、架空の詠史句である。わが国の女性天皇には、明瞭な狂気を伝えられる例はないものの、しばしば大土木工事を起こして批判を浴びた斉明天皇や、道鏡を寵愛した称徳天皇には、やや常軌を逸した一面が感じられなくもない。称徳天皇やその母・光明皇后が強く意識していたといわれる武則天は聡明な政治家であったようだが、女性君主の前例の無い中国で、一宮女の身分から帝位に登ろうとし、現に登ってしまったのはまことに驚くべき破格ぶり。さらに目を転じると、カスティーリャ女王で狂女(La Loca)とあだ名されたフアナがいる。また、君主ということにこだわらなければ、中国史には始皇帝の母(荘襄王の后)をはじめ病的な淫乱さや残虐さで知られる貴婦人の例はいくらもある。左句は、こうした実在の女性たちをはるかな面影にしたフィクションということになろう。

言葉の解釈の上では、「跨りたがる」主体が「狂女帝」であるのはいいとして、中七と下五の間に句切りを置いて読むのか、あるいは「秋の山」を跨るの目的語として読むのかという問題がある。どちらにせよ「跨りたがる」には性的な含意があり、前者の読みならば跨る対象は人間の男性で、「秋の山」は背景として配されていることになる。しかし評者としては、俳句語法を持ち込んで句切りを置くことはせず、「秋の山」に跨りたがっているという素直な読みを推奨しておきたい。燃えるように紅葉した「秋の山」を指さしながら、あれに跨らせろとわめく「狂女帝」を、周囲の者たちがおろおろしながらなだめすかしている、というような場面を思い浮かべればよい。帝王の狂気らしく、性的な欲望がトポグラフィカルなスケールにまで肥大してしまったわけである。注意すべきはここで「秋の山」という季語が、その本位を最大限引き出されていることだ。秋という季節の華やかさと滅びの予感が、狂気と(満たされぬ)性愛というモティーフのうちに鮮明に響きわたっている。

左右両句の作者が属する団塊の世代の学生時代は、シュルレアリスムの情報がわが国で大衆レベルにまで浸透した時期にあたっている。その影響もあってか、この二人の句作にも時に狂気をめぐるロマンチシズムが影を落としているのを看取することができる。もちろん左句の作者は自己の情念にのめりこむことにためらいがより少なく、右句の作者のいわゆる半身の姿勢は掲句にあっても例によって例の如しである。両者の句業に優劣はつけ難いが、ここでは季語が強力に機能し、調べが一段と重厚な左の勝とする。

季語 左=秋の山(秋)/右=水球(夏)

作者紹介

  • 宮入聖(みやいり・ひじり)

一九四七年生まれ。掲句は第二句集『千年』(一九八三年 冬青社)より。

  • 攝津幸彦(せっつ・ゆきひこ)

一九四七年生まれ、一九九六年没。掲句は、第四句集『鳥屋』(一九八六年 冨岡書房)より。

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