日めくり詩歌 俳句 高山れおな (2011/8/26)

二十五番 雪とからだ

左持

ひろげてもひろげても雪夜鶴の胸 仁藤さくら

雪・躰・雪・躰・雪 跪く 田中亜美


前回にひきつづき、涼しさをお届けすべく季節外れの雪俳句です。
左句でまず確認しておきたいのは、「雪夜鶴の胸」の部分の読み方で、そんなの「ユキヨ、ツル ノ ムネ」に決まっているでしょうと思う人が多かろうが、じつは「夜鶴」という言葉があるのである。つまり、「ユキ、ヤカク ノ ムネ」と読むことも可能なのだ。白楽天の詩句に、

夜鶴、子を憶ひて籠中に鳴く

とあるように、鶴が子を守って夜も眠らないことから、子に対する親の情愛の深さをいう喩えとなっているのが「夜鶴(夜の鶴)」の語。現在ではほぼまったく使われないとはいえ、古典の世界では比較的ポピュラーな用語で、我が国最古の書論が『夜鶴庭訓抄』というタイトルになっているのは、能書の家に生まれた藤原伊行が愛娘(=建礼門院右京大夫)に家伝の教えを授けたものだからだし、幼い次女を亡くした其角が、

霜の鶴土へふとんも被されず

と詠んだのも、「霜の鶴」すなわち「霜夜の鶴」であって、土中に埋葬された娘にはもう蒲団をかけて温めてやることもできないと、悲しみにくれる親心を表しているのである。

かくて「ユキヨ、ツル ノ ムネ」も「ユキ、ヤカク ノ ムネ」も言葉の上からは成立してしまうし、意味の点からも両方ともアリではあろうと思う。しかし、結局のところ「ユキヨ、ツル ノ ムネ」の方が良いと考えられるのは、ひろげられた鶴の胸毛の奥から現われるのが「雪」であるよりも「雪夜」である方が幻想としての強度があり、この句がそもそも虚のイメージのみで成り立っていることを誤解の余地なく示してくれるように思うからだ。誤解というのは、「ユキ、ヤカク ノ ムネ」とした場合――人間(飼い主とか獣医とか)が、(病気になったかした)親鶴の胸毛を「ひろげてもひろげても」まるで「雪」のように白い胸毛がずっと重なっていました――といった具合に、素朴実在論的に読む人がいないとも限らないということです。まさかと言う向きもおありでしょうが、しかし、ね……。

さて、右句であるが、これについては、『新撰21』巻末の座談会(小澤實+筑紫磐井+対馬康子+高山れおな)で、若干の言及があったのでまずそれを引いておく。

高山 「雪・躰・雪・躰・雪 跪く」とか、すごい。この一字アキにはどきどきしました。
小澤 魅力を感じつつもはっきりとわからなかった。この雪は、一片の雪ってことですか?
高山 実体というよりは、冷たさとか白さ、儚く溶けてゆくとかそういう連想をともなった言葉としての「雪」でしょう。それで「雪・躰・雪・躰・雪 跪く」とは、女性のエクスタシーなのか、と妄想的に読みました。
対馬 そこまでは想像しませんでしたけれど、まあエロスというよりは肉体派と言ったほうがいいのかもしれないですね。
筑紫 「雪・躰・雪・躰・雪」ってね、折り重なっていく感じだけれど、実は一人のからだと積もってる雪だけ。それがこう、モンタージュされていくような、そんな感じがしなくはないですね。

ここで筑紫がモンタージュの語を持ち出しているのは適切だろう。しかし、「実はひとりのからだと積もってる雪だけ」と言っているのには疑問がある。この「躰」も「雪」もやはり高山が述べるようにさしあたっては言葉であり、“躰というもの”“雪というもの”を、それらの語のコノテーションと共に指し示しているとすべきではないのだろうか。そしてそれが「雪・躰・雪・躰・雪」とモンタージュ式に交互に反復されるのは、「積もってる雪」よりはむしろ“降ってる雪”をこそ感じさせる効果をあげているはずだ。

次に問題となる一字アケと「跪く」――評者はここで唐突ながらルキノ・ヴィスコンティ監督の『山猫』のラストシーンを思い出すのである。記憶で書くので誤りがあるかもしれないが、映画の三分の一をも占めるあの大舞踏会の場面のあと、バート・ランカスター扮する主人公のサリーナ老公爵は馬車には乗らず、徒歩で帰宅の徒につく。そして、明け方のパレルモの街路の石畳に突如ひざまずいて、この汚れた地上から早く天に召してくださいと神に祈るのだ(これも記憶では、ランペドゥーサの原作小説の方にはこのシーンは無かったと思う)。イタリア統一による社会の激変、階級的な没落、自らの老いといったさまざまな要素に由来する万感の思いがあって公爵はこのふるまいに及ぶわけであるが、右句における一字アケと「跪く」もまたいわば“万感の思い”の存在を示す、最も簡潔な措辞になっているようだ。この場合、小説でも映画でもないからその思いの背後にあるものは明確には描き出されず、ただ「雪・躰・雪・躰・雪」と呟くように暗示されるだけだ。しかし、それで充分ではないか。我々を過ぎ逝くものと規定しているこの「躰」と、この「躰」ゆえに感じることができる(感じざるをえない)「雪」。その交感から現にいま自分が“ある”という認識がやってくる。その認識が時に「跪く」という言葉で表現するにふさわしい程の激しい(あるいは深い)感動をもたらすために、我々は必ずしも年老いた大貴族であることを要しないはずである。

先に左句について、虚のイメージであると述べた。一句としてはその通りであるが、しかし出発点には雪という自然現象に対する感動があるに違いない(それは右句も同様である)。その、雪の夜空を見つめる目と心が、雪のように白い「鶴の胸」の羽毛を“ひらく”イメージを呼び出すのだ。鶴という鳥が連想させる気高さ高潔さへの希求。その求めあくがれる思いの果てしなさを示すのが「ひらいてもひらいても」のリフレインである。「雪夜」は思いの原因であると共に目的でもあって、それは鶴と同じく気高さ高潔さそのものでありながら空無なのであった。求めあくがれながらその対象が空無であることをあらかじめ知ってもいる、その悲しみが一句を貫いているのが感じられないだろうか。これこそ典型的なロマンチックイロニーに他ならない。

と、縷々述べてきたのでおわかりのように、両句共に大変すぐれている。甲乙つけ難く、持。

季語 左右とも=雪(冬)

作者紹介

  • 仁藤さくら(にとう・さくら)

掲句は、第二句集『光の伽藍』(二〇〇六年 ふらんす堂)より。

  • 田中亜美(たなか・あみ)

掲句は、『新撰21』(二〇〇九年 邑書林)より。

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