日めくり詩歌 俳句 高山れおな(2011/9/16)

三十番 戦後

左勝

父母に戦後ありけり豆の花 押野裕

残る暑のごとき戦後と闘へる 大谷弘至

左句は、二〇〇二年の作品らしい。出典の句集に、所属誌の主宰である小澤實が寄せた序文では、次のように鑑賞されている。

わが父母は戦後という激動の時代を生き抜いてきた。そして「わたし」を育ててくれた。(中略)この句、両親が敗戦から始まる日々を生き抜いてきたことが描かれ、自分を育てあげてくれた両親への感謝の思いまでほのめかされている。この句は膨大な過去の時間を含んでいる。そして、息子の立場から見た戦後という時代は、足下の豆の花のようにあくまで安らかだ。

少々こだわってみたいのは、作者の「父母」というのは何年生まれなのよ、ということだ。当たり前ながら、敗戦時に何歳であったかによって「戦後」体験は全く異なるし、そこにさらに個々人が負った環境の差異がかぶさってくる。後者については考えても仕方がないとしても、敗戦時に幼少ないし未生だった人と、二十歳を超えていた人の経験を、ひとしなみに「戦後という激動の時代を生き抜いてきた」とくくるのは乱暴かもしれない。そして、左句の作者が一九六七年生まれであることからして、その「父母」が敗戦時にごく幼ない子供だった可能性は高いのである。だからと云って、「父母」が「戦後」を経験していないということにはならないにせよ、その意味は応分に軽くなるはずだ。もちろん「豆の花」の斡旋は、無名の庶民としてそれなりに懸命に生きてきた両親に対する共感(なんなら小澤がいうように感謝)を暗示するには違いないが、同時に、押野から見た両親の「戦後」がいささか風俗史的な興味に傾いているのではないか、という印象も抱かせるのである。実際、出典の句集には、

神保町夏ミゼットの父若し

という句も見えるのだ。左句の作者とほぼ同齢である評者の実感をあえて持ち出して言わせてもらえば、ある年齢に達した作者が、ある年齢に達した二親の若き日を思いやって、それがまさに「戦後」という時間に当たることにささやかな興趣(もしくは感傷)を覚えた句、というふうに受け取るのが最も素直なように思う。

左句の一九六七年生まれの作者においてすでに「豆の花」のように淡く遠く煙っていたはずの「戦後」なのに、一九八〇年生まれの右句の作者にとってそれは、「残る暑」のごときものとして、闘う相手として、なお実体を保っているというところに驚かされる。この場合の「戦後」とはなんなのであろうか。もしかすると、左句において愛惜されていた「父母」が、こちらでは闘う対象として召喚されているのかもしれない。しかし、もっとありそうなのは、戦後派の俳句であろう。ばりばりの戦後派として出発しながら回心を経て戦後派と対立した飴山實、その弟子である長谷川櫂に師事するのが右句の作者だからだ。主要な戦後派俳人は金子兜太を除いてほぼ鬼籍に入ってしまったが、「戦後俳句を読む」などという試みを組織する筑紫磐井あたりも、右句の作者から見るといかにも反動的な鬱陶しい「残る暑」ということになりそうだ。まあ、“父母説”“戦後派俳句説”、いずれも全く筋違いの誤読である可能性も否定しないが。

右句は、作者が何を考えているのか深甚の興味を喚起する点は面白い。しかし、句自体の読みとなると、上に記した通り、充分に自信を持たせてくれない。左句は、ともかくも心優しい共感性に富んでいる。よってここでは左勝としておく。

季語 左=豆の花(春)/右=残暑(秋)

作者紹介

  • 押野裕(おしの・ひろし)

一九六七年生まれ。「鷹」を経て「澤」同人。二〇〇五年から二〇〇八年まで同誌編集長。掲句は第一句集「雲の座」(二〇一一年 ふらんす堂)所収。

  • 大谷弘至(おおたに・ひろし)

一九八〇年生まれ。長谷川櫂に師事。二〇一一年一月より、「古志」主宰。掲句は、第一句集『大旦』(二〇一〇年 角川学芸出版)所収。

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