日めくり詩歌 自由詩 渡辺玄英(2011/09/19)

幼児たちの空  鍋島幹夫

さようなら かつて煙のたった町
殺し合うほどのこの世の親密さについて
その形そのまま
語ることをやめた卵たち
しかし
諦念によって見開かれたその瞳孔は
もはやあなたたちの一撃によっても
閉ざすことはできないだろう
ざわめくものに目印をつけること
卵の沈黙を思わぬこと
「ぼくらはできるだけ不幸を避けることにつとめなければ
 いけない。最後に出会う不幸をより完璧でより上等なも
 のにするために」
 
ぼくらの臓器を割ってのびる草が
花を咲かせ 地に崩れ また実をつけ
あなたたちに食べられるまでを繰り返す
愉悦の残酷劇を
ぼくらは見開いたままの瞳で
涙を流しながら凝視めつづけるだろう
チューリップ どくろ 砂時計
その構図を遠景にして
空に赤ん坊のような実が熟れるまで

(詩集『三月』より)

 鍋島幹夫さんは、今年2011年7月に64歳で亡くなった。詩集『七月の鏡』(1999年)ではH氏賞を受賞している。

 心残りなのは、近年は作品を目にすることができなかった。なぜ作品を発表しなかったのか、今となっては確かめるすべもない。ともかく、わたしたちは優れた詩の書き手をひとり失ったのだ。

 鍋島さんは、わたしにとって怖い、しかし信頼できる先達だった。表情は柔和であっても、激烈なものを内部に絶やすことはなかった。評価できないものに対しては、徹底的に辛辣で容赦しなかった。つまり、人に対しても、作品に対しても、いつも彼は表層ではなく、真相とでもいうべきものをじっと凝視していたのだと思う。そして、これは贋物と判断するや、一気に破り捨て、見向きもしなくなる。

今回はわたしの前回の本欄同様、鍋島さんの詩集『三月』から一篇の詩を紹介したい。

 おそらく、宮崎勤事件が影を落としているのだが、それは重要ではない。なによりもここでは、決定的な悲劇が起こったのち、「諦念によって見開かれた瞳孔」がただ凝視するほかないと語られているのだ。それは決定的な何事かの経験を得たからには、どうしようもないことなのだ、と。

「チューリップ どくろ 砂時計」。無垢と死と無常、とでもいうのだろうか。それを遠景にして「空に赤ん坊のような実が熟れる」、この残忍で遣り切れない、しかし、うっとりと官能を誘うようなわたしたちの世界の風景。

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