秋山基夫「窓Ⅳ」
壁にもたれて坐りこんでいる
窓の
くもりガラスの外は
雨が降っている
何も
見ていない
雨粒が地上に衝突する音を聞いている
雨粒のひとつぶひとつぶが砕けちる音を聞いている
破壊の平面が遠くへひろがっていく
一日は一秒に砕け
一秒は無数の一秒にひとしくなる
傘をさして
たぶん女が通りすぎていく
きのうも雨が降っていた
雨水の流れおちる石段をのぼってきた
片側の石垣に
あじさいの花がかたまっていて
もう一方は崖で
錆びた鉄の手すりが傾いていた
靴の裏で 砂のつぶれる音が
じゃりじゃり鳴った
誰もおりてこなかった
(前半部分、思潮社『現代詩文庫193 秋山基夫詩集』所収、2011年6月)
『現代詩文庫193 秋山基夫詩集』には、1965年に出版された第一詩集『旅のオーオー』から2007年の『オカルト』まで、全部で10冊の詩集から抜粋された詩が収録されています。
ほとんどの詩集が部分採録ですが、唯一『窓』(1988年)という詩集は全篇収録されており、そのことがこの選詩集をさらに読みごたえのあるものとしています。
『窓』に収められた13の詩編はどれも、一日中窓の前でじっとしていて、雨が降っているだの、風が吹いてくるだの、雪が降ってきただのと観察しているだけの、どうしようもないものです。
これらの詩が書かれた当時はまだ「ひきこもり」だとか「ニート」だとかいう言葉は一般的でなかったでしょうが、現在の視点から見ると、この人は大丈夫だろうか、働いた方がいいんじゃないだろうか、と思ってしまうかもしれません。
けれどもこの窓の定点観測は、窓から見える気候の変化だけを記述しているわけではありません。
「きのうも雨がふっていた」とあるように、しばしば昨日のことが思い出されます。
また、「たぶん女が通りすぎていく」とあるように、この窓のある部屋に出入りしたり、窓の外を歩いたりする、人の気配が描かれます。
ところでこの詩について疑問があります。
「雨水の流れおちる石段をのぼってきた」のは誰なのでしょうか。
「砂のつぶれる音」を「じゃりじゃり鳴」らしたのは誰なのでしょうか。
きのうの「私」でしょうか。
それとも窓の外を通りすぎていく女でしょうか。
もしかしたら、どちらでもよいのかもしれません。
いま窓の前にいる「私」に定位して書かれた記述においては、きのうの「私」の行為も、他人の行為も、区別する必要のない等価なものとして存在するのではないでしょうか。