日めくり詩歌 短歌 斎藤寛(2011/11/09)

叩かれても叩かれても手話をするひつくり返されたてんたう虫ら    坂 和生子

『たたかれても手話』(ながらみ書房刊、2000年)より。坂和生子さんは聾学校の教員であり、自らも難聴の方である。(「聾学校」は2007年度から制度上は「盲学校」「養護学校」を含めて「特別支援学校」と改称されたが、「聾学校」関係者の間ではこの改称に反対する声も多い。)この歌集の「あとがき」に次のように書かれている。

《私は小学校に入る前、麻疹にかかり、難聴になった。右耳は聴力を失い、左耳は少し大きな声なら聴こえるという状態になった。十三歳の時の手術により聴こえは更に悪くなり、十七歳より補聴器を装用するようになった。「聞こえないことは克服すべきこと」という健聴者の意識を、難聴者である私も愚かにも信じ、聴こうと空しい努力を続けた。この愚かさと空しさに気付かせ、励まし、助けて下さったのが成人聾者たちであった。彼らは聾学校では教えない手話で、人間の尊厳を守った生気あふれる生き方をしていた。その生き方に、深く共感し感動を受けた。その感動を表現したいと思った。》

上記の文章から、この国の聾教育が抱えてきた問題も、この歌集のタイトルのゆえんも、そしてこの一首に籠められた坂さんの思いも、了解することができる。「聞こえない」ことを「克服」しようとする聾教育は、「口話法」(相手の唇の動きから発話内容を読み取り、自らも発話し、音声によるコミュニケーションを成立させようとする方法)を採用してきたが、最近は、公教育の中で手話の教育を行なうことも、少しずつ市民権を得てきているという。手話は、話され書かれる日本語と並ぶもうひとつの言語であり、この国の社会を豊かな多言語空間へと向かわせるパワーを持つものだろう。

直接的には口話法に対して手話を支持し、手話教育を実践する者の思いが詠まれている一首だが、「叩かれても」からは「差別されても」、「ひつくり返された」からは「差別されてきた」という倍音が響く。「ひつくり返されたてんたう虫ら」には、坂さんが職場でつきあっている子らのみならず、坂さん自身もまた含まれるだろう。この歌のひとつ前の歌は、《「これはなに!」手をすぼめた手話の手を叩く教師あり 見て見ない振り》。「叩く」者は文科省や教育委員会に限られず、制度なるものに限られず、すぐ隣りの同僚であったりもするわけである。

教師が自らの仕事を詠む歌は、ややもすると教師の自己愛をイコール教育愛のように思い込み、蜂蜜に砂糖をまぶしたような、数首読んだだけでノーサンキューと言いたくなる「うるわしき学園物語」風のものになりがちなのだが、坂さんの作品にはそうしたテイストはない。それは、やはりご自身が難聴のゆえに被ってきた諸々の困難と、それに対して闘ってこられた経験のゆえなのだろうと思う。短歌に限られたことではないのだが、良き教育愛のようなスタンスから脱け出して、学校という場を語の真の意味でありのままに描き出す表現が、今、求められていると思う。そういう関心から読んでも、印象に残る作品である。

タグ: ,

      

Leave a Reply



© 2009 詩客 SHIKAKU – 詩歌梁山泊 ~ 三詩型交流企画 公式サイト. All Rights Reserved.

This blog is powered by Wordpress