日めくり詩歌 短歌 斎藤寛 (2011/12/12)

たすけて枝毛姉さんたすけて西川毛布のタグたすけて夜中になで回す顔    飯田有子

先達の歌人の方とお喋りしている時に、「あなた、枝毛姉さんみたいな歌は好き?」と聞かれたりすることがある。飯田有子(ありこ)さんのお名前をこの《たすけて・・・》の歌とセットで記憶している方も多いだろう。名歌とか秀歌とかいうジャンルではなく、問題作というジャンルに入る一首である。

落ちている紙を拾ったら、そこにこの《たすけて・・・》の一行だけが書かれていたとする。一読、これは短歌であると判断するひとは、まずいないだろう。ともかくもこの一行は文学的表現らしい、と判断したとしても、おそらくそれは一行詩、あるいは詩の断片と受け取られるのではないだろうか。音読するなら、「たすけて枝毛姉さん/たすけて西川毛布のタグ/たすけて/夜中になで回す顔」あるいは「たすけて/枝毛姉さんたすけて/西川毛布のタグたすけて/夜中になで回す顔」という2通りの切り方があり得るだろう。ところがこの一行は歌集に収められていてこれを一首の短歌として読むことを作者は要請している。もとより『林檎貫通式』にはこういう歌ばかりがずらずら並んでいるわけではない。この歌集の中でもこの一首がいちばんヘンな歌なのだが、ともかくもこれは短歌である。

短歌として読むなら、「たすけて枝毛/姉さんたすけて/西川毛布の/タグたすけて夜中に/なで回す顔」という句切りになるだろうか。初句の7音は初句としての許容範囲だし、2句の8音も法外な増音ではなく、結句「なで回す顔」の7音でともかくも歌の形に収まっていると言えないことはない、という歌だ。ただ、たしかにこの一首だけを読む限りは、よくわからない謎めいた歌のように思えてしまう。

だが、この一首をこの歌集全体の中で読むと、読者の感想はおのずと異なってくるだろう。この《たすけて・・・》は、一首独立の作品として読まれたり論じられたりするべきものではなく、この歌集全体の中に相応の位置価を持つものとして読まれたり論じられたりするべきものだろう、ということを、『林檎貫通式』を読んで僕は思ったのだった。

《のしかかる腕がつぎつぎ現れて永遠に馬跳びの馬でいる夢》というのが、『林檎貫通式』の冒頭の一首である。《空が私にのしかかる 私という/水平線に囲まれて立ちすくむ唯一の者に-》(シルヴィア・プラス「嵐が丘」=『湖水を渡って』高田・小久江訳)というフレーズが想起される。プラスはそれでも地に垂直に立っていたが、この歌集の作中主体は、立つことかなわず馬でいる者、あまたの他者たちに踏みつけられ、この世界の中で永遠に屈している者である、という像が印象深く提示される冒頭歌である。さらに、《なにもかも何かにとって代わられるこの星で起こることはそれだけ》《いまはなにをしてもはじめて雪のはらいたいのいたいの飛んでおいでよ》《駅を流れる水に口までつかりつつあなたへとさしむける機械の口が》《折り重なって眠ってるのかと思ったら祈っているのみんながみんな》というような歌が重ねられてゆく。

《折り重なって・・・》の歌の次の次にこの《たすけて・・・》の歌が置かれている。虚の世界の底にうずくまりながら、それでも、ケガレをはらうようにして排除された「いたいのいたいの」はここへ飛んでおいでよと詠まれ、息苦しいまでになにものかに流されながらもそこにはなお「あなたへ」というベクトルがあり、死体のように折り重なっている者たちにもなお「祈り」を見る。そのような者の発する痛切な叫びとして、この《たすけて・・・》の一首が置かれているのである。このような歌群の中でこの一首を読んだ時に、僕はちょっと涙ぐんでしまったのだった。

そして、その後には、《それどけてあたしに勝手に当てないでそんな目盛りあたしに関係ない》《婦人用トイレ表示がきらいきらいあたしはケンカ強い強い》というような歌が現れる。枝毛姉さんにたすけられたのか、西川毛布のタグにたすけられたのか、いや、おそらくは歌そのものにたすけられたのだろう。あたしはいつまでも馬跳びの馬でいるわけじゃないよ、というトーンの歌によって、『林檎貫通式』は閉じられる。ウメコさんによる女子高生風のイラストも配され、いかにも十代後半ぐらいの女性が詠んだ歌群のように作られている歌集だが、飯田さんはそのような作中主体を演じることを通じて、現代における死と再生の可能性を探ろうとされたのであろう。印象深い歌集である。

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