日めくり詩歌 短歌 斎藤寛 (2011/12/23)

人類の滅びといへどすこし愉し不治者われらも平等を得む   滝沢 亘

『白鳥の歌』(短歌研究社刊、1963年)所収。引用は、『現代歌人文庫・滝沢亘歌集』(国文社刊、1987年)より。

11月1日以降のこの欄では、歌集として公刊されているものの中から何人かの方の歌をご紹介している。おおかたは現在なお活躍中の作者の比較的最近の歌をご紹介しているが、前々回(12月15日)の小中英之さんと、今回の滝沢亘さんだけは、すでに鬼籍に入られた方である。小中さんは2001年没。享年64。滝沢さんは、さらにさかのぼって1966年没。享年41。小中さんはあまたの持病を抱えておられたというが、一方、滝沢さんはひとえに結核を病んだ方である。それも、結核が“治る病気”と言われるような時代になって、なおも“不治”の運命を負わされた患者であった。

かつて結核が“不治の病い”であった時代、患者たちは穏やかに隔離され、ひたすら安静を保ち性欲を抑え栄養を摂取する、というような療法が施された。そこには「健康」な者たちが負うような厳しい労働の苦しみはなく、諸々の人間関係が織り成す起伏ある日常生活の彩りもない。かと言って、激痛に苦しむような日々が続くわけではない。そんな場に置かれた時に、ひとは切実に何かを言いたくなるに違いない。結核患者向けの『療養生活』という雑誌(1923年創刊)には、そんな患者たちの記した手紙、短歌、俳句などが数多く掲載されていた(青木純一『結核の社会史』御茶の水書房、257ページ以下)。そうした者たちの中で、メジャーな歌人として何人かの名前が残されているが、滝沢さんはその筆頭に挙げられる存在であろう。

滝沢さんには『白鳥の歌』『断腸歌集』の2冊の歌集がある。『白鳥の歌』は、その冒頭に刊行時点では最新の昭和37年の歌が置かれ、それ以降は昭和28年から、詠まれた年の順に歌が配列されている。上記《人類の・・・》は冒頭の昭和37年の歌。制作順ではそれに先立って、昭和32-33年の歌群に、《平等に来る死を思ひ今朝よりの怒りゆるみて嗅ぎし夜の薔薇》、昭和36年の歌群に、《平等に来る死と謂へど惑はしといふべしわれのごと病むは稀》という歌がある。

あの者たちとは異なってわれは不治の病いを負い、おそらくは遠からず死を運命づけられている。あまりに不平等ではないか。ひとたび「平等」という近代の概念を手に入れた以上、彼のような境遇に身を置くこととなった者は誰しもそう考えるだろう。いったいこの何処に平等があるというのだろうか、という問いを、救済の在り処を探すようにして問うことになるだろう。あの者たちにもわれにも、ともかくも誰にも死はやってくる。平等ではないか、と詠み、いや、そうは言えども・・・と反転してまた詠み、その挙げ句に、最終的にほんとうの平等を成立させるためなら人類全体と心中するのもよかろう、と何かもう背負い投げでもくらわすようにして詠んだのが、この《人類の・・・》の一首であった。そんなふうに思われてくるのである。

亡くなられる3ヶ月前に刊行された『断腸歌集』(1966年)の中にも、《食の足る時代に遇ひて起ち難し戦争あるな平和もあるな》という歌がある。われのような存在を内包してしまう「平和」なら、そんな「平和」もあるな、というのだ。

これは露悪の歌ではない。だからと言ってもとより救済を得た者の歌ではない。その煩悶のさまは、滝沢さんが置かれた境遇を超えて、この地の上にあって悩み、悲しみ、怒る者たちにその共鳴板を生むだろう。《人類は滅亡すると想うとき華やぐこころ星と戯むる》(岡貴子)と詠まれたり、その星さえもまた《いずれ原子に還りゆくべし星たちは三億年ひと三万日ほど》(高木善胤)とその死を思われたりするような作品の中に、この滝沢さんの一首を位置づけることもできそうである。

作者はその実生活においては悩み苦しみ悲しむことも多かったはずなのに、歌はなんと清らかで美しいことだろう、というケースもある。もちろん、そういう作品もあっていいだろう。だが、滝沢さんのように、救済を得ない者が救済を得ない自らのありようを実況中継のように詠んだ作品からも、読者は何がしか救われるような思いを得ることができる。歌は何処かで人間の生老病死にかかわり、そして生老病死のある限りこの世は苦しみに満ちているのだからである。

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