日めくり詩歌 渡辺玄英 (2011/12/30)

夫唱   丸山豊

 つぶらまなこの遺兒をつれ 谷をわたり梨畑を
ぬけて 靑い電車にのつて嫁いできた妻は 私の
こめかみや膝小僧のあたりで かすかに死が匂ふ
といふ お前がうしなふたものと しづかに訪れ
たものと 不思議におなじ匂がするといふ そし
てまた お前の奥部からうひうひしい生命をとら
へようとするこの胸も 死者さながらにつめたい
と お前の軟部から果實の聲を聞き分けようとす
るこの唇も 冷酷なもので濡れてゐると にもか
かはらずお前ははげしく充たされると
 二百十日がすぎたなら 私とお前とは子をつれ
て レグホンで刺繍したお前の村へ行かう その
とき骨のないあの骨箱に秋のぬくみがあるように
 月夜には戰死した彼をくはへて 新しい影繪を
組みたてよう

 先日、NHKドラマ『坂の上の雲』の『二〇三高地』を見ていたとき、この詩を思い出した。太平洋戦争、ビルマ戦線の地獄の戦場から帰還した丸山豊のこの詩が、何故か日露戦争の熾烈で無残な戦闘の後の風景に思えたからだろう。

 この詩には、戦場から帰還した「私」と、戦争未亡人になって嫁いできた「お前」、そして父を戦争で亡くした子の三人が登場する。「私」は戦争で多くの死を見つめ、「死の匂」が沁みついて帰ってきた。おそらく日常など回復しないほどの深い傷を抱えて。つまり、三人とも戦争で掛け替えのないものを失ったのだ。

「お前」は帰還兵の「私」と愛し合いながら、そこに死の匂いを感じとってしまう。その引き裂かれたような深い悲しみに苦しくなる。充たされながらも、「つめたく」「冷酷な」死の気配を同時に感受している残酷さ。不条理かつ暴力的にもたらされた死は、生き残った人にも回復不可能なほどの傷を与えるのだ。この作品の中盤の性愛の遣り切れない悲しさとエロティシズムの光景は、読むたびに胸が潰れそうになる。

 最終部の「レグホンで刺繍した村」の死者と死に色濃く犯された者たちとの「影繪」のような描写も味わってほしい。丸山豊は戦後、谷川雁、安西均、森崎和江、川崎洋らを輩出した詩誌「母音」の主催者でもある。

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