日めくり詩歌 短歌 吉岡太朗 (2011/2/10)

そこから見えてゐてもここから見えないたとへば花を剪るときつて

平井弘「Peace」『振りまはした花のやうに』

さあブラインド・ウォークをはじめましょう。
まず二人ずつペアになってもらいます。ペアは自由に決めていいからね。ほら、早く。
みんなペアができましたか? できましたね。じゃあペア同士でじゃんけんしましょう
か。最初はグーですよ。
おや、あいこが続きますか? 仲のよい証拠ですね。
終わりましたか、じゃあ負けた人は手をあげてね。君たちには、目隠しをしてもらいま
す。はい、そっちから回していってね。
みんな目隠しできましたか。何も見えないですね。ズルはだめですよ。
じゃあペア同士で手をつないでください。ほら、恥ずかしがらずに。
手をつなげたペアから歩き出してください。ゴールは教室ですよ。
目隠しをしていない方の君たち、君たちがリードして下さいね。安全にね。ちゃんと壁
や段差がある時は教えてあげるんですよ。

はづかしいから振りまはした花のやうに言ひにくいことなんだけど
これでは散つた胸羽がおほすぎるからきれいだとおもつてしまふ
死んでしまつたものはたいていさう花の水だつてさうなんだから
なにもそんなに持ちこまなくていい砂場では砂で遊んでていい 同
 
「そこに何かがある」ということは示されている。
しかし、「それが何であるか」は示されない。
それと「私」との間にあるものは、確かに「私」の手を握ってくれているその人によっ
て、安全に隔てられている。「私」は守られている。けれど、守られているからこそ、そこ
にあるものに触れて確かめることができない。
何が「これ」で何が「さう」なのか?
一体、砂場には何が持ち込まれたのか。
掻き立てられる不穏なイメージ。
「私」の中に募っていく不安。
さて、その「私」とは一体誰なのでしょう。
もちろん作者でも作中主体でも平井弘でもありません。
その答えは自明のように思いますが、すぐに明かすのはやめて少し回り道をしてみようと
思います。

「読者にとって、〈私〉が確かに生の現実に触れた証のように感じられる」というのは前回引いた穂村さんの文章ですが、
ここには短歌におけるコミュニケーションの構造が示されています。

まず作中主体がいる。それから世界がある。作中主体と世界のかかわりが、言語空間として構築される。
これが作品です。その作品をどこからか見下ろしている目がある。それが読者です。

ここで前提とされている暗黙のルールは、作中主体は世界の方しか向いていけないということです。
作中主体は作者なのだから、読者がいることを当然知っていなければならない。
そして読者の存在を意識しなければならない。しかし同時に読者の方を向いてもいけないのです。

舞台役者が演技中に、観客に向かって語りかけてはいけないのと同じです。
その実、観客に向かって語りかけている台詞も、他の登場人物に対する台詞やモノローグに
偽装する必要があります(観客に語っていいのはナレーターだけですが、解説ナレーションはもはや詩ではないようです)。

作中主体は作中で誰かに語りかけている。

私は先ほど、4首の歌を立て続けに引用しました。引用の2首目は独白、4首目は
第三者への呼びかけと取れますから違いますが、1首目と3首目は確かにそばに誰かがいる気配がある。

以下の歌でも呼びかけがみられます。けれど相手が誰なのかは明示されません。

甘藍にかけた紐のことですがどうしても封じ込めたいですか
まひおりる鳩をめがけてはしりよる影むろん同じ数ですよね
リヤカーつてありましたよねぢやうぶだつた鎖骨とおなじほどの 同

『ドラゴンクエスト』というテレビゲームのシリーズで、主人公の役を担う登場人物は、
一切の台詞を口にしないのですが、そのことにより、プレイヤーは主人公の心情などを自由に想像することができます。
その結果、プレイヤーは主人公に自身を投影することが容易くなる。このこととそれは少し似ているかも知れません。

その人物についての情報は一切ない。一切ないからこそ、読者は自分をその人物に重ねることができます。

そこに何かがある、ということは示されている。
しかしそれが何であるかは示されない。
それと「私」との間にあるものは、確かに「私」の手を握ってくれているその人によっ
て、安全に隔てられている。「私」は守られている。けれど、守られているからこそ、そこ
にあるものに触れて確かめることができない。
何が「これ」で何が「さう」なのか?
一体、砂場には何が持ち込まれたのか。
掻き立てられる不穏なイメージ。
「私」の中に募っていく不安。
さて、その「私」とは一体誰なのでしょう。
もちろん「私」とは、その謎の人物のことです。
作中主体から呼びかけられているのは、その人物なのですから。
そしてその人物は読者でもあるわけです。だから「私」とは読者である、
という構図が成り立ちます。
読者はもはや作品を俯瞰する存在ではなくなっているのです。

ご苦労様です。みんなよくがんばりましたね。
目隠しした方の君たち。不安だったでしょう。いつも通っている廊下や階段が違った感じ
られたことだと思います。その違いの感覚を大切にしてください。ひとを信頼するという
ことも学習できましたか?
リード役だった君たち。大変さでいうなら、君たちの方が大変だったかも知れません。人
を気遣うことって難しいことなんですね。この体験を生かしていい大人になってくださいね。
おや、どうしたんですか? 一組足りないって?
そうですね。でも仕方ありません。彼らはちょっと素直すぎたんですよ。君たちと違ってね。
だって君たちにもあれは見えていたはずですからね。

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