日めくり詩歌 自由詩 山田亮太 (2012/02/22)

瀬崎祐「市場にて」

(前略)
 
肉はどのくらいほしいのかね と素っ気なく女主人が尋
ねる
抑えようとしても抑えられない高ぶりによって 人形や
仮面の肉はかってに揺れている めまいが私をおそい
私の身体も揺れはじめる
ほんの少しと答えると わずかに獣の肉が切り取られ
その瞬間に私の腕に痛みがはしる
ふりかえった女主人に もう少しだけ欲しいと伝える
と 今度はざっくりと獣の肉に包丁が入る 私の二の腕
の一部も欠けて そこから血が滲みはじめる
 
(中略)
 
言葉を失うということは こんなにも見ることや嗅ぐこ
とに耐えることだったのか
私は獣の肉をうけとり それから 傍らに棄てられてい
た獣の皮を頭からかぶる
市場のなかを歩きはじめると 獣の尾が血をこする音が
聞こえる 人々は私を指さして口々になにごとかを叫ぶ
のだが もうその意味を理解することはできなかった

(思潮社『窓都市、水の在りか』所収、2012年1月)

瀬崎祐さんの詩集『窓都市、水の在りか』には、たくさんの不気味で気持ちの悪いキャラクター、
奇妙でおぞましいシチュエーションが登場します。
そうした中でも、この「市場にて」という詩はとりわけ怖いと感じました。

肉屋の女主人が獣の肉を切り取るたびに、「私」のからだの一部が欠ける。
そして獣の肉を受け取った「私」は、どういうわけか獣の皮をかぶり、自らが獣のようなものになってしまいます。

私たちは日々、肉を食べて生きています。
思えば、肉を食べるということは、からだの一部を別の生き物のからだと交換していることであるのかもしれません。
そのような考えを私はこれまでに持ったことはありませんでしたが、この詩を読んで初めて考えました。

最近は、肉を食べるときにしばしばこの詩を思い出し、少し嫌な気持ちになります。

獣になるということは言葉を失うことなのでしょうか。
「言葉を失うということは こんなにも見ることや嗅ぐことに耐えることだったのか」という詩句が印象的です。
田村隆一さんの「言葉なんか覚えるんじゃなかった」という有名な詩句のことも思い出します。

私は言葉を覚えて以来、言葉を失った経験がおそらくないので、憶測でしかありませんが、
「言葉なんか覚えるんじゃなかった」とか「意味が意味にならない世界に生きてたらどん
なによかったか」とか思ったとしても、実際に言葉を失ってみたらきっと耐えがたいでしょう。

それでも私は、まだしばらくは獣のようなものになることはないだろうと信じて、肉を食べつづけるのでしょうが。

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