二十億光年の孤独 谷川俊太郎
人類は小さな球の上で
眠り起きそして働き
ときどき火星に仲間を欲しがったりする
火星人は小さな球の上で
何をしてるか 僕は知らない
(或いは ネリリし キルルし ハララしているか)
しかしときどき地球に仲間を欲しがったりする
それはまったくたしかなことだ
万有引力とは
ひき合う孤独の力である
宇宙はひずんでいる
それ故みんなはもとめ合う
宇宙はどんどん膨らんでゆく
それ故みんなは不安である
二十億光年の孤独に
僕は思わずくしゃみをした
だいぶ長らく、「荒地」や「列島」などの「戦後第一世代」に関わってきたが、ここら辺で次の世代に移りたい。
「戦後第一世代」が戦場で直接、戦争を経験したのと比べて、次の世代は、1930年前後の生まれで、敗戦時は十代で戦場には行っていない。当然、この二つの世代の間には大きな断絶がある。前者が戦場での感覚と比して、戦後の自分を異物として感じているのに対して、後者はむしろ戦後の時間こそを、生きようとしている。もちろん、彼らにも、空襲や飢えなどの、戦争に関する苦しい経験はあるだろう。しかし、原爆や引き上げ、大空襲などの経験があるものを除けば、生き残ってしまったという死者に対する負い目と、そこから発する生きている自分への違和は薄い。この断絶は必然ではあったとはいえ、戦後詩の問題が孕まれているのがだが、今回はそこには触れない。
掲出の作品は、もはや説明するまでもない、戦後詩で最も知られた作品、といっても良いだろう。刊行されたのは1952年、戦後7年でこのような作品が書かれたのは、驚きである。とはいえ「荒地」の刊行は57年で、同人はこの時点では、まだほとんど詩集を出していない。また、「列島」に至っては創刊が翌52年である。年齢は違ってもほぼ同時代の詩人だ。谷川は1931年の生まれの、この時21歳。詩集がいかに鮮烈であったかが分かるだろう。そのころのいくつかの詩集とともに、まさに新しいといえる、時代の変化を示した。「この若者は/意外に遠くからやつてきた」という、三好達治の序詩の書き出しが、そのような状況を、的確に語っている。
まず書き出しの、「人類」という言葉が、極めて大きな広がりを示し、次の行では日常へ、さらに次は「火星」と、より遠くに言葉は伸びる。言葉の振り子の振れの幅と、反射神経の敏捷さは、今読んでもうなってしまう。当時、目に触れた人たちが、いかに新鮮さを感じたか想像できる。さらに、次の行では、「火星人」、「ネリリ」「キルル」「ハララ」と、まった他人には想像の及ばない展開をする。また、続きがいい、二行四連とまとまった形に移行する。内容も明確な世界観である。改めて読んでみると、二つの異なるかたちと内容の詩が、つなぎ合わされている、力技を感じる。しかも違和感がない。音を見てみよう。
一連は「五七三」「五七」「四八七(八)}と微妙なずれをはらんでいる。詩の中で、突出していて、散文性が強いのは二連だ。「六七三」とまずはじめは一連とほぼ同じ、次は間を一字あけ明確な区切りを示し「七七」。ここまでは変形した、「五七五七七」である。そこからが、詩でも一番字足が長い二行。しかも、一字アキを多用しはっきりと区切りを示し、「三四四八」と音はかなり崩れている。次の行は「七八七(八)」と落ち着いた音が続く。その後は「六(七)七」。つづく二行の四連は頬ほぼ「五~七」の音に入り、読むものにゆっくりと、思考を沁みこませる。
まさに、戦後詩のひとつの骨格、ともいえるかたちがここにある。