透明を憎んで木々はこれほどにふかいみどりに繁る 見よ 見よ
佐藤弓生歌集『薄い街』(二〇一〇年十二月・沖積舎刊)
おいしいワインを飲むみたいに歌を読むということはあって、佐藤弓生の歌などはそうである。作品の基調が孤独への親しみにあり、作者は相当にタナトス願望にひたされているけれども、絶望してはいない。ひりひりとするような生きることのさびしさに、絶妙な知性と感性のバランスを持ちながら、たぶん言葉の感覚だけに支えられて日常の困難をクリアしている。
それを象徴するのが、作品集冒頭の詩人左川ちかについて書かれた文章「少年ミドリと暗い夏の娘」である。「彼女は死を予期し、彼女を溺死させかねない緑の生命力をおそれた。」左川ちかは、昭和十一年一月に二十四歳で病没した。右に引いた一首は、その文章の末尾に置かれている。
夢を脱ぐ夢をみた朝あやうさはマンハッタンのはだかのからだ
シャープペンシルかたむけるたびアメリカのあたらしき皮膚かたかた匂う
このあふれるような、言葉のイマジネーションの震える定着の姿を見よ。不確かなものを不確かなままにとらえながら、結句で鮮明な白く輝く肉体を朝の光の中に出現させる一首め。確かな手触りのあるもの(アメリカ製シャープペンシル)を、イメージの表皮とともに言葉でとらえてみせた二首めのさりげない形象化。
詩人とか作家とか、ある種の人達は、言葉のサーフィンをしながら生きることが日常化しているので、生活というものの風波を切り抜けることと、創作や詩があるということの意味が必ずしも背馳するものではない。日本の短詩型は、そういうクリエーターのようなタイプの人に相性がいいことがある。佐藤弓生の歌は、ある種の人々にとって、そうしたドアの一つであるのにちがいない。
悲しいというのはいいね、濡れながら、傘を買わなくてもかまわない
神さまのこと考えてしまうのは いるのに、いない人がいるから
かなしい人は、たいていは自分がそのようであることを当然のように受け入れてしまっている。真実とか、痛くてせつないことがらというのは、赤裸々に語るのではなくて、こうやって作者のように詩の言葉でやさしく包んで、わかる人にだけわかるように差し出されるのがいいのだ。前歌集『眼鏡屋は夕ぐれのため』(二〇〇六年・角川書店刊)と比べると、だいぶタナトス願望が濃くなっているように思うが、佐藤弓生の歌集は、繊細にひそやかに人が生きるための命の文法書なのだ。
にんにくの白いお尻を割りてゆく僅かな、まごうかたなき、ちから
恕されるなんてどうでもいいまでにママのましろの茹でたまごたち
『眼鏡屋は夕ぐれのため』