すみだがわ 廿楽順治
かわではかっているやくざないのち
がどうしたこうした
およいでわたってきたわけでもないのに
みずだけはまだ
そのちんぽこでうるんでいるか
かわはばくのしっぽ
かげをながくする忍法でこの世紀をこえてきた
ひろうしたみずから
ぶんがくをながしてしまえ
あんゆってなんですか
せいきとせいきのあいだを
どうやってつながってきたかもわからない
あさくさにはいいおべんとやがあるよ
みやこどりとは
この渡世人のことだ
かどうだか
せなかに入れているものをいちまい
におう貨幣にして
ななめにはらっている
さすがぁむいちもんの死人だ
わたしは知らないが
もうなにもくえないやつらのせかいには
ぱんの会とやらがあって
まいばんするめをなめているのさ
お父さん
そのぶんがく史はちがいます
このかわはめっぽうくさくて
きのうもきょうも
海につながっちゃいない
廿楽さんの作品には読者を巻き込んでいく独特のリズムがある。本作でも、やや斜に構えたようなセリフ回しで、粋な雰囲気というべきか、きっぷのいい伝法さが伝わってくる。「やくざな」、「忍法」、「渡世人」、「せなかに入れているもの」(彫物のことだろう・筆者)、「むいちもんの死人」など等。まるで柴田連三郎の大衆小説の名辞のようだ。まずはこうした作品空間と語りのリズムとを楽しむべきだろう。
そして、この書法の中から、ノスタルジックな架空世界から伸びてくる時間に、詩の発話主体が抱えてきたさまざまな含羞、挫折、希望、冷静な思考といったものが浮かび上がってくる。読者は、本作の時間の幅の中を、つまりこの廿楽さんの「すみだがわ」を泳ぐことになるのである。
泳ぐといえば、本作の特徴のひとつには、二つの地点が(明示はされないが)想定されて、そこを横断もしくは断絶する思いが語られる。「かわ」自体が彼岸と此岸を分かつものだし、「せいきとせいきのあいだ」、「わたる」、「こえてきた」という言葉がいくつも使われている。現在と過去、あるいは未来。理想と現実。それ以外にもあるだろうが、人はときには川を渡り、ときには渡れず、自分の生を見つめなおさずにはおれないことがある。その川には、本流も支流もあるだろう。また、渦巻きや淀みもあるだろう。そして「海につながっちゃいない」ことも。しかしどれも自分の生であることには変わりがない。いくら目を背けようとも、どれもが否定のしようもない自分なのだ。この詩を読んでいると、疼くような思いとともに、そんなことを考えてしまう。