日めくり詩歌 短歌 吉岡太朗 (2011/04/13)

西の人しずかにわらう おがくずのなかから百合根とりだすように 

村上きわみ「神さまの数え方」,『短歌ヴァーサス』創刊号.


淡路町の交差点を有楽町の方へ。
「町」の批評会で東京にきたのだけれど、東京の町は建物が高い。
いつだって道というのは谷間だけれど、こんな千尋の谷感は京都ではなかなか味わえない。
「土地活用」と書かれた緑の看板がある。私は猫の額ほどの土地も所有していないことを思う。
貸し会議室がある。東京ではこういうものが商売になるのだな。
歩いていくといろんなものに出会う。牛丼屋、歯医者、旅行会社に居酒屋。頭の中でいろ
んなスイッチが押される。過去や想像上の未来のあちこちにリンクが張られている。
習志野ナンバーの車を見つける。そこからは高校野球のことにも、こないだテレビでみた事件のことにも通路がつながっている。
鎌倉橋という地名の表示。東京には何でもあるんだなあ、鎌倉まである。
橋の袂に黒地に緑の看板があり、「1994年 日本本土市街地への空襲始まる」と書かれている。
その下にモノクロの写真。昭和というのはいつもモノクロだ。かつて世界に
は白と黒の二色しかなく、そのあわいに世界があったのだ。
橋を渡る。橋の上に高架がある。橋と橋が交差している。橋の下には川が流れていて、
私の歩いている方の橋はそことも交差している。
水はどこへいっても水なんだなあ。厳密には成分などは違うのかも知れないけれど、東京の水も京都の水も水だ。
水は世界中に分布している。
世界には牛丼屋や歯医者や居酒屋などのさまざまなものがあって、それはそれは途方も
なく広いのだが、わたしの想像する漠然とした世界のイメージよりも、この世に存在する
水すべての体積全体の方がずっと大きいかも知れない。
けれどそれさえも含めたすべてのものが世界なのであり、世界は世界よりも大きいのだ。
その世界というのはいったい何なのかというと、すべてなのである。
思い浮かぶもの指し示すもののすべてであり、思い浮かばなかったもの指し示さなかったものすべてである。

 
 
 


西の人って何者だろう。
西洋、西方浄土、西遊記、西部劇、日の沈む場所、羊皮紙に書かれた世界地図や羅針盤のイメージ・・・・・・
関西の人とも読めなくもないが、その解釈の手前にすでにこれだけイメージの広がりがある。
結局何者かわからない。
作中主体よりちょっと西側に立っていて、だから西の人なのかも知れないし、そうだとしたら表現として変だけど、
変は変なりにいいから、別にそれでもいい。
そのひとがわらっている。
それだけの光景だ。
何ら具体的なものはない。
おがくずから百合根をとりだすのは具体的な景で、ゆっくりと高いところからおりていった手が
小さなものを掴んで戻ってくる動きを示しているが、それはすべて比喩である。
なぜそれが笑うことの比喩なのか。
無理に解釈して読むこともできそうだけれど、何となく無理はしたくないなあと思って
ぼんやり眺めてると、「おがくず」っていうひらがながいいなあと思えてくる。字がわらっているみたいだ。
「なかから」の「か」が二つつながる感じもいい。なんかもたついているのが楽しい。
百合根の根とかもいい。
何か生えていく感じ。
百という数の多さもいいな。
百合根というのはスーパーにいけば簡単に手に入るし、そんなに値段が高いわけではないけど、
どことなく高級品ぽいところがあって、買うときは何かテンションがあがる。そういう楽しさと「わらう」は関係あるだろうか、ないだろうか。
おがくずという不毛の砂漠から確固としたものを取り出すことのよろこびみたいなものもあるだろう。
それでいて「を」抜きによって、確固とした百合根もどこか宙に浮いたもののような感じがする。
「しずかに」ってどんなニュアンスか。穏やかな感じかな、わらっていても冷静みたいな感じかも。シーソーみたいに読みが揺れる。
ぼんやり歌をみているといろんなものがみえてくる。
言葉の次元も意味の次元もイメージの次元も解釈の次元もあり、自分が何をみているのかわからなくなる。
歌っていうのはそういう風にいろいろなのだろう。いろんな読みが交差しまくる交差点。

 

その交差点も含んで世界というやつは存在している。

タグ: ,

      

Leave a Reply



© 2009 詩客 SHIKAKU – 詩歌梁山泊 ~ 三詩型交流企画 公式サイト. All Rights Reserved.

This blog is powered by Wordpress