日めくり詩歌 短歌 さいかち真 (2012/04/18)

夜空より落ちはなれたる肉の疣われは跳ねゆく舗装のおもてを

玉城徹歌集『樛木』より

肉をもつものの世界」の章から引いた。一連十首中の九首めの歌で、難解をもって知られる。この謎めいた歌の試解を以下に示したい。

この歌で夜空から「落ちはなれ」たものは、たぶん梅の実や、未熟な柑橘類のようなやや弾力性のある果実・木の実なのだ。そうして、四句めの「われ」は古語で、二人称の意味の「われ(お前)」なのだ。それを初読の際にどうしても、一人称の「われ」として読んでしまうから、またそう読ませるような仕掛けが一首に施されているから、読者は不思議な印象を持つことになるのである。まるで一人称の〈我〉の肉体が、「疣」のように舗装路の上を跳ねているかのようなイメージが、読み手の心に浮かんでしまって消えない。それは、作者が、この「我」・自己存在というものは、そこをはかなげに跳びはねている「肉の疣」に等しいものだと感じているからだろう。

典拠はあるのか。リルケの『ドゥイノの悲歌』第五に、軽業師の姿を「木の実」にたとえている章句がある。

「おお、お前、ただ木の実にしか見られぬような/落ちかたで、未熟のまま/日に百度、皆が組んで育てた軽業の樹から/落ちくるお前よ(略)/(略)/そこからお前は落ちて墓にあたって跳ねかえる、/ときとして一息するにも足りぬわずかのひまに、」(手塚富雄訳・岩波文庫昭和三二年刊)

玉城の修めた教養からして十中八九は、この詩業をもととして右の歌ができていると私は思う。そうすると、舗道を跳ねる「肉の疣」というのは、元のリルケの詩では、大道芸人たちの姿のことである。それを作者は、前後の文脈を切り落として引用し、下敷きにしている。別にそれは読者に気が付かれなくてもよい。一首は、自然観照の詩のような外見をとりながら、みごとに元のリルケの詩が持っていたニュアンスを残存させたものとなっている。手塚富雄の「第五の悲歌」註解には、次のようにある。

大道芸人の姿から、リルケは「(略)われわれ一般人間の、定めない、まやかしの、しかも追われるようにそのまやかしをくりかえしている日常的生存のみじめさを、そこに見たといえるだろう。」

 まるで夜の空から落ちて来たかのように、幹から離れて跳ね返った肉の疣のような木の実、「われ」。初句の「夜空より落ちはなれたる」という、日本語による短詩型の利点を最大限生かした省略のみごとさと、「肉の疣」という生々しい言い方で木の実を言い表したことによる詩的な異化の作用によって、一首は〈肉〉、ハイデッガー言うところの〈現存在〉の嘆きを訴えかける深玄な趣を漂わせる詩として屹立することになったのである。

タグ: ,

      

Leave a Reply



© 2009 詩客 SHIKAKU – 詩歌梁山泊 ~ 三詩型交流企画 公式サイト. All Rights Reserved.

This blog is powered by Wordpress