日めくり詩歌  自由詩  岡野絵里子(2012/04/25)

キャラバン   河津聖恵

世界をどこかへ連れてゆく人々がいる
ふたたび眠りはじめる私の
頬が埋もれてゆく羽枕の砂漠
その稜線を
夢でしか感じられないごく微量の感情が伝いおちてゆく
月光に照らされ
小さなかけらのようなひとかげは移動をはじめる
海ほおずきのかたちの家畜と
なにか大きなものが最後に吐いた息をのせた荷台を牽いて
昨夜も その前夜も
夢から醒めれば忘れられる緩やかさで
世界はゆっくりと移動していたのかもしれない
放浪でも散逸でもなく
漆黒の腹をあらわに
美しい斑紋の光を輝かせながら
それはとらえられた夜空の獲物として
人々の頭上を神話のようにただ連れだってゆく
 
 
私たちに何が起こったのか
黒曜石のシルエットとなって遠ざかる人々は
世界をにえにしようというのか
それとも護ろうとしているのか
私はといえば目でも耳でも鼻膜でもある
ムーンフラワーの白い花弁を風にぼんやり揺らせている
夢の中で心は世界の縁に立ち
見送ることさえできるのだった
忘れていた空漠に幼い産毛をあおられている
そのことを何と呼べばいいだろう
 
 
遠ざかってゆくものを<すべて>と言うのだと知る
見たこともない
 
 
 
 
砂漠の花となった私は感受している
しべをチラチラ燃やす黄金のカタストロフィーと劫初の花粉
 
終わりは月光に足跡がしずまる稜線によって
始まりへと繋がれてゆく
青の翳りからシーツの皺はあらわれ
私は消えた花の香りのように朝へと放たれている

「青の太陽」 思潮社 2004年

暖かくなり、朝方の眠りが心地よい季節になった。私たちの枕許をも、キャラバンは通ってくれるだろうか。「海ほおずきのかたちの家畜と / なにか大きなものが吐いた息をのせた荷台」をひく小さな人々が。大きなものとは、ふさふさと毛の長い静かな獣だったような気がする。その肉体の末期に深く吐き出されたという息。つらさが指に触れてきそうだ。

夢のうつつに「私」は思い巡らせている。世界は小さな人々に運ばれているのだと。生の流転と無常は、彼らの彼方からやって来るのだと。砂漠の砂に車輪と足をめり込ませるようにしながら、ゆっくりと移動していくキャラバン。頭上では、神話の物語そのままに夜空を横切っていくものがある。星だろうか。いや、キャラバンの一隊と星々は同一物なのだ。そして世界そのものとも。

遠ざかる人々の意図を見送り、心を澄ませるうちに、かすかな啓示が降りてくる。「遠ざかってゆくものを<すべて>と言うのだと知る」。この時、詩人は劫初を受粉する一茎の花だ。月光の下、山の稜線も、そこに残された足跡もしずまって、何かが始まっていく。一つの終わりと次の始まりが繋がっているのだ。課題を解いたかのごとく、「私」は夢を終え、現実の朝を迎える。自由に。放たれて。

冒頭から最終行まで、意識の流れが実に美しい。痛みや苦しみを包んだ生の意識が、夢という無意識の領域と合流して、さらなる深遠へとあふれ落ちていく。

詩集「青の太陽」は、画家香月泰男の同名の絵が発想の源になっている。冥い穴から見上げられた白い星と穴のかたちの青空のことだそうだ。所収の作品はいずれも美しい流れを持ち、私たちを運んでくれる。まだ見たことのない「世界の縁」から、その外へ。

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