日めくり詩歌 自由詩 鈴木一平 (2012/05/03)

『わたしたち』小長谷清実

わたしたちという言葉を
どんな言葉よりとてもすきだ
わたしたちという言葉を口にするとき
とてもやさしい気持ちになれるから
それはきみと抱き合ったときのように
わたしときみを区別しないたてまえだから
 
キスすることやきみの眼をみつめること それが
なげやりなことか
とても真剣な行為なのかはどうでもよい
わたしたちの腸がねじれていて
おたがいにふきげんになることもある
でもそのときわたしたちは孤独でない
 
きみのこころのうえにわたしの両手をのせ
きみを愛してると言いたいことが時どきある
ふるえるような舌の痛みが
それをわたしにいつもためらわせる
時代がわたしたちをどんなに不幸にしようとも
でもそのときわたしは不幸なんかでは決してない
 
球根なしのユリの花やわたしたちの文明
それはきみのきれいな顔までも
幻のように淡いものにしてしまう
過ぎ去った時の流れが決定するものを
わたしが感じさせられるような時こそきみの顔は
ますますゆめのあじさいのようにみずいろだ
 
わたしたちという言葉を
どんな言葉よりとてもすきだ
みっともない時代のみっともない恋を
わたしたちがどんな具合にしようとも
それは花々にかざられた名誉ある抒情詩だ
わたしたちは過程に生き そして死ぬのだ

この前、なんとなく小長谷清実詩集を図書館で借りて読んでみて、なんとなくいいな、と思って書き写してみて、読み返してみたらそんなに良い詩でもないかもしれないと思い始めてきた。読んだ時もけっこう感じていたけれど、いざ書き写してみると意味の強さが目立ってなんとなく息苦しい。「わたしたちという言葉を/どんな言葉よりとてもすきだ/わたしたちという言葉を口にするとき/とてもやさしい気持ちになれるから/それはきみと抱き合ったときのように/わたしときみを区別しないたてまえだから」冒頭の一行からして、何を言おうとしているのかが少し前面に出過ぎている感じ。

それなのにどこかしらでやっぱりいいな、と思う部分がこの詩にはあって、それは書きながら上手く言葉にできればいいと思いながらこれを書いているわけなんですが、ぼくは基本的にこういう類の詩を読んでいると途中で飽きてしまうのに、なぜかこの詩は途中で飽きずに全部読むことができた。ということだけをまずぼくじしんのなかで確認したうえで、何が読めたのだろう、あるいは何が読めなかったのだろう、そのことについて考えていると、それはたぶん、意味やモチーフに回収されないところで言葉の持つ何かしらの個性を引き出して書いているところに単純に読ませない何かを感じたからなんだろう。

まあ、どっちにしろ内容に関してぼくはこの詩について言いたいことはほとんどなくて、たぶん書かれてある内容に関しては「『わたしたち』という言葉を時代とか文明とかに結び付けずに語っていたところまではすごく明るいうえにどこか悲しくてよかった」「でも途中で2人に分かれてしまうところが悲しくてよかった」「結局文明とか時代とか言ってしまってるところが悲しくてなんかあれだった」で終わるので終わってしまう。本当は終わっていないのかもしれないけれど、個人的にはそれで中身の読解をこれ以上する気が起こらなかったのでやめてしまった。というかだいいち、内容に関して何かを言えるという時点でぼくの中ではあんまり好きな詩とは言えない。

詩を読んでいていちばん快感を感じる時は、詩の全体に貫通している何か意味に回収されないところ、つまり「わからないけどなんかすごい」と思えるところを発見した時で、この詩においてはたぶんところどころであらわれるぎこちない節回しがそれに当たるのだと思う。言葉というのはそもそも物質であるはずはなく、物質であると言ってしまえばそれは嘘になるのだが、それでも言葉に物質性というか、質量を感じさせるような語り口が詩でなくても文章の中にあらわれる時があって、たとえばこの詩なら「どんな言葉よりとてもすきだ」「キスすることやきみの眼をみつめること それが/なげやりなことか/とても真剣な行為なのかはどうでもよい」「わたしが感じさせられるような時こそきみの顔は/ますますゆめのあじさいのようにみずいろだ」「わたしたちがどんな具合にしようとも/それは花々にかざられた名誉ある抒情詩だ」のところが特にぎこちなくていいと思った。もしかしたら全部の行にそれは含まれていたりするのかもしれない。

どういうところにぎこちなさや質量を感じるのか、そもそもそこで働いている原理とは何かということについては上手く言えそうにないのだけれど、色々あるところの一つか二つを取り上げてみるとたぶん、やめとけばいいのに余計な一言やら省略があるからだとか、そうすることで見かけは透明に近いような言葉の、意味の伝達が少しだけ曲げられて、それによって生まれる歪みが意味やイメージを少しだけ遅らせたり、伝わりにくくさせるところなのだと思う。隠喩によって隠された意味だとか、イメージとも言えないような微妙なところなんだけど、まあ、そうして伝わりにくくなった言葉を読むと、ぼくはそうとしか書かれていない言葉の前で「何だこれ」と思い、立ち止ってしまう。同時にそれによって言葉が伝達のための情報や記号であることから離れ、一回性の生々しさみたいなものを得たように感じ、言葉の中に詩が取り戻されたように感じがして、そういうのは読んでいていいなーと思う。

言いたいことは言えちゃったので言えてしまったところを少し曲げてみようかな、ちょっとすんなり言いすぎちゃったとこあるし、ノイズの一つでも混ぜてみようかな、みたいな意志が書き手じしんの気持ちとしてあったかどうかについてはよくわからないけれど、とにかくこうして提出された言葉をそのまま真に受けて読む限りでは、何かを語る際の語法の中に生まれた歪みの持つ魅力にぼくは惹かれた。そうした歪みをどうにか方法化するか身体に刻みこんだりして、そうは読まなかった人にも同じように生きられるようなものを書いてみたいとも思った。まあ、それは言ってしまえばひと息に書くことでふいに生まれる偶然に近いものなのかもしれないし、推敲の時には真っ先に消されてしまう、誤字のようなものかもしれないけれど。

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