日めくり詩歌 短歌 吉岡太朗 (2012/05/22)

世の涯に滅びゆかむ幾千の伝説サーガの中を吹ける秋風 井辻朱美『地球追放』 

 1
 京都は五条通りを北に折れて、木屋町通りを上がってゆくと、右手には、老舗の旅館や割烹料理屋、古式ゆかしい家屋が立ち並び、左手に高瀬川が流れています。
 3月はまだ寒く、時が眠っているように、通りは静かです。
 高瀬川は水位が浅く、水面が底にこすれるほどしかありません。3月も末となると、川の中にライトが設置され、夜な夜な川沿いの並木を照らします。
 ごつごつとした無骨な裸木、誰も木の裸なんか見たいわけではないでしょうが、こうしてライトアップされると不思議と映えて見えるものです。
 主役は遅れてやってきます。いずこの職人がこしらえた飾り屋根か。薄紅色の端正な天蓋は、屋外にいながら建物の中を歩いているような眩惑感を誘います。
 春の異様を持て余す間に、幾度かの雨。すべての花びらが地上に吸われてしまい、アスファルトを汚す美しい塵芥。
 気づけば、あたたかいどころか暑くも感じられるようになり、まだ新緑の淡い色だと思っていた葉桜は、いつの間にか毛深い男のように青青としています。桜の足元には咲くつつじ。そういえばと思って川の中をのぞくと、いつの間にかライトは撤去されています。通りの向かいの鶴清旅館の門前には、花水木の白や紅。

 2
 季節というものはなぜでしょう、はるか彼方にあるように思えます。
満開の桜の森も、打ち水に濡れる暮れの小路も、古寺を彩る紅葉も、橋の上空を舞う鴎も、現に目の当たりにしてみれば、どこか偽物めいています。確かにそこにはそれが見えるのだけれど、しかしそれが本当なのか? という不思議な疑惑に囚われてしまいます。
 夏になれば、熱気と湿気と冷房の陰湿な寒さに苦しみ、冬になれば、布団との毎朝の愛別離苦に苦しむ日々が、嘘であるわけもなく、現実はただそれだけなのですが、季節というものは、現実を超えたところにあるのではないか。そのように思ってしまいます。
 秋に焦がれ、夜の虫の音に読書をし、薄を飾り団子を捏ねて月見をし、梨や葡萄や柿や栗を食い、秋刀魚を食い、落ち葉を集めて芋を焼き、紅葉を狩る。
 けれどそれらのパーツを拾い集めても一向に秋にたどり着いた気はしない。それらのパーツひとつひとつが秋なのではなく、私を取り囲む外界の総体として秋というものがあるのだから当然なのだけれど、そう思ってもその総体自体が秋の偽物のようにしか思えない。
 こんなものは本当の秋ではないと思って、自分の中で思い描く秋像なんてものを取り出そうとするけれど、そのイメージのなんと漠然としていることか。
 しかし、別の季節になって思うと、その漠然さが漠然さゆえに美しく、結局これは不在のものとの距離に恋をしているだけに過ぎないのではないか、という気になってしまいます。
 結局のところ距離が思いを募らせ、募らせた思いがレンズとなって実像を歪ませ、対象を美しく錯覚させるわけで、しかし錯覚と分かっていても、錯覚に恋をしてしまうのが人というもの。
 遠ければ遠いほど鮮やかでくきやかで、心をひきつける。
 たとえば古い伝承物語の中を吹く秋風は、この西木屋町通りを吹く風よりも遥かに薫り高いものでしょう。

 3
 木屋町通りを東に折れて、クロネコヤマトの営業所のある小道から、松原橋を渡る時、いちどきに空間が広がります。
 川面にふりそそぎ、反射して散らばるひかり。季節はすっかり初夏で、河川敷は無精ひげを生やしたように、すっかり青い。
 葦がそよぎ、柳が大振りに揺れ、生い茂る草たちがおのおののペースで風に吹かれている。春を賑わした雪柳の白はもう残像さえも残っていません。
 遙か上流まで伸びていく鴨川の眺望。それをまなざした一瞬が、私という生の絶え間ない時間経過から切り離されて、どこか永遠めいたものとなるのを感じました。
 私の記憶が、私とは別の場所に保存されるかのように。
 もう夏だな、と思いました。通りを折れてそこまで歩いてきた私、橋を通り過ぎ、横断歩道を渡っていく私。それらの私、前後の文脈と無関係に、ただその一瞬だけ「夏だな」と思ったのです。その思いは、すぐに別の雑念に紛れて消えていきました。

 4
 距離を超えるには隠喩しかないのでしょうか。
 隠喩というのはジャンプのことです。
 図書館が森であると思った瞬間に、認識が森へたどり着くように、それを夏だと思った時、一瞬で遥か彼方へ跳躍する。暖気と寒気のくんずほぐれつが結果的に春という気候を作り出すように、光や風やにおいや音が想念と混じり合い、たまたまその時だけ季節というものを醸成する。
 現実を流れる季節は動的なものでしかありえませんが、認識が感知する季節は静的なものとしかなりえません。それはすぐに別の認識に上書きされて消えるものなのですから。
 俳句には季語がほぼ必須ですが、短歌でも初心者はよく「季語はいるのですか?」とききます。実際に、季節を表す言葉は今も昔も多用されています。
 内容がどうしても静的にならざるを得ない定型詩というものは、静的なものとしかなりえない季節というものを捕まえるためには、うってつけの道具なのでしょう。

 
 

 5
 ところで歌に戻ると、この歌にも距離を超えることが読まれているようです。
 古いサーガの位置と私の位置は遠く隔てられていますが、秋風はここにも吹くに其処にも吹く。
 それを媒介として、私とサーガの世界がリンクする。

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