日めくり詩歌 自由詩 渡辺玄英(2012/05/29)

兎   岬多可子

夜の飼育小屋で
たくさんの兎がしずかに混じり合っている
声というものがないので
区限ということがない
 
小麦粉のドウとドウを捏ねてひとつにする
そんなふうな混じり方
 
そして また
そこからひきちぎられたように
濡れたにぎりこぶしが
夏の赤い穴の中にころがっている
 
粉のような虫が
小屋の錆びた鍵穴から 大量に湧き出て
どこかへと長い長い列を作る
 
にじみでていく夜というものが
兎というものの全体なので
生死を数えることはできない

詩集「静かに、毀れている庭」(2011年)から

夜の兎の飼育小屋が抑制された筆致で描かれている。しかし、作品が醸しだすものは重く深い。存在の意味が問われているからだ。

まず、兎はひとつの個体としてではなく、「しずかに混じり合っている」存在と提示されている。そして、それは「小麦粉」を捏ねてつく団子のように塊のようだとも語られている。たしかに、わたしたちも含めて〈存在〉には、群体というべきか、個が意味を持たなくなる場合がある。岬さんはそうしたものを、まず読者に示している。

第三連は、この詩の中で最も分り難い。混ざり合ったひと塊から、「ひきちぎられたように/濡れたにぎりこぶしが」あるというのだ。しかも、それは「夏の赤い穴の中にころがっている」と書かれている。兎の生態に無知なので、これが具体的に何のことか分からない。推測すれば、生まれたての兎の赤ん坊なのかと思うが違うかもしれない。しかし、まず間違いなく、生きるものの湿度の高さ、熱を帯びた何かが差し出されている。これを〈生〉と位置づけるなら、次の第四連が差し出すのは〈死〉に近似したイメージだ。

第四連、「錆びた鍵穴から」「粉のような虫が」「長い長い列を作る」のだから、何かしら不吉であるし、ここには葬列めいたものを感じずにはおれない。こうしてみると、第三連と第四連に、生死の対比が意図されていると読んで差し支えないだろう。

小麦粉の塊のような存在にしてみれば、生であろうと「ひきちぎられた」塊であるし、一方、死であろうと「粉のような虫が」「列を作る」わけでやはり小麦粉の塊の部分にすぎない。つまりこの塊には、ただただ「全体」があるだけ。しかもそれは夜と等しいような存在で、決して分割できはしない。最終連、夜と兎が重なってしまうがゆえに「生死を数えることはできない」というのだ。

この作品を読み終えたとき、読者は個体といもの存在の意味を自らに問わずにはおれなくなるだろう。世界はそれまでとは違う見え方を始める。

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