日めくり詩歌 短歌 さいかち真 (2012/06/07)

脱げなくて死ぬ蛇のようわたしたちころがりまわるばかりの夏野

蒼天に組みふせられてくさはらにわたしはひとり たれも待たない

佐藤弓生歌集『薄い街』

 前回に続ける。同じ一連の一首とばした次の二首を引いた。「脱げない」のは、抽象化して言うと「私」の自己同一性、自意識の苦痛そのもののことだ。そこで「組みふせられて」「ひとり」「たれも待たない」のは、そのことの孤独に耐えるしかないという、近代のおなじみの物語を再度確かめ直したことへの作者の含羞を示すものと言うべきだ。もう少し現実的に読もうとするなら、「ころがりまわるばかり」の日常生活を生きているのは、「わたしたち」の普段の姿である。この「私」はむろん〈女性性〉を帯びたものであり、その点については、また別の作品をあげなければならない。

  
うごかない卵ひとつをのこす野に冷たい方程式を思えり
どの人が夫でもよくなってくる地球の長い長い午後です
恥丘とは不可思議の語わたしたちは海に向かってランチをほどく

 三首つづけて引いた。「私」が性的な存在であるということの痛々しいまでの意味を「私」は問い続けている。性的な存在として〈女性性〉を負うことの苦しさを思うというのは、高度な自意識だ。こう書いて少し違和感がある。「海に向かってランチをほどく」というのは、性そのものを暗示しているが、実際の海の景色も同時に見えている。だから、自意識だけの詩ではない。ことばのイマジネーションを拡げる詩なのだ。野の卵は、女性の卵そのものだ。でも、読みながら野に産み付けられたヒバリのような鳥の卵の映像を頭に浮かべてよい。こんなふうに佐藤弓生の歌の言葉は、「私」の深層にあるものを掘り起こしつつ、同時に言語のイメージを拡げてゆく性質のものである。これは塚本邦雄が説いた真のリアリズムの実践と言っていいだろう。 

 (この文章は、浅川肇氏らによる歌誌「無人島」に掲載したものを、一部改稿したものです。)

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