日めくり詩歌 自由詩 鈴木一平(2012/07/10)

霧の町   田中勲

「どなたが越してきたのかしら」

どぶ川が垣根の
闇にぽつんと灯がともっている
「これで悪臭からも解放されるぞ」
と云った、かもしれない
霧の日々
近在の底びかりする
目差しの矢尻も光を失くして久しい
隣家は
不完全な空家のはずであった
闇の手を渡りつくして
闇に溶けきる寸前ではなかったか
「やっと落ち着きましたね」
「この年で生きてる振りも楽ではないが……」
闇の声が
樋を伝って滴りおちる
浴室から 妻が咳こんでくる
「そろそろ南方へ移りましょうよ」
「生まれた土地が一番だといってたくせに」
といった、かもしれない
「わたしたちは泡も同然埋める骨さえ抜かれた身なのよ」
はっと目が醒めたのだった、かもしれない
そしてお互の鼻をつまみ
ふたたび別の眠りに
とびこむのだった
ダムの底のような霧を纏って……

「どぶ川が垣根の/闇にぽつんと灯がともっている」という部分は、ぱっと読んでみて誤字なのかと思ったかもしれない。ほとんどの文章をパソコンで書いているぼくは紙に文字を書くことがびっくりするほどないので、たまに紙を前にして文字をペンで書いてみると修正の利かなさにすごくおどろいたりして、実際そのことはあんまり関係がないんだけど、言葉が何か意味らしいものを写す以前のものとして、そうした意味みたいなものは基本的に正しい文法が成り立たなければきちんと表示されないということを読んでいて気付いた。けれど、そんなことは関係なしにそれでも言葉は続いていくことができるかもしれない。それはけっこうやばいことなんじゃないかと思う。

ある1行があって、その前後にある言葉がその1行を支配しようと奪い合う構図のことを考えてみる。たとえば「」で閉じられた言葉が語り手の声なのか、妻の声なのか、それとも闇の声なのか、この詩を読んでいるとそうした言葉というのは配置しだいで主権をまったく予期しなかった誰かや何かに奪われてしまうのだということを、今まで当たり前のこととして理解していたのになぜかそのことが頭に浮かび、意味もなくえんえんと考えてしまう。別にこの詩に限った話でもないんだけど、そういうことに立ち止まらせて考えさせるところでこの詩はいい詩だと思う。

この詩に限った話でもないことをもう一つ、もっと言えば詩に限った話でもないんだけど、今月の詩手帖である人がある人のある詩集に関することを書いていて、これは別にステマとかじゃなくて誰か(本人だったかもしれない)から「あの人(私?)の詩集が取り上げられてるよ!」っていう話を聞いて、それを読んでみて、それ以外の文章をここ最近はほとんど読んでいないからなんだけど、取り上げた人は詩における遠近法? について話していた。手元に詩手帖がないから引用できないんだけど、覚え間違いも含めて覚えてる限りで、詩における凡庸さ? は世界を新しくもない遠近法によって表すこと? みたいなことを言っていて、いや、それは取り上げられている人の詩がそうでないことを説明するための文章なんだけど、何かしら情景が浮かぶような言葉の配置の取り方というものがあって、大したことのない詩は「場所はこれこれこういうところで、ここにAさんがいます」みたいなことをあっさり言う。たぶん読み手以前に書き手が安心したいからそういうことをするのかなと思う。そんなことはべつにしなくても詩が成り立つのだし、結局は単なる方法の一つにしかすぎないのだと思う。ここまで書いて何について書こうとしていたのか忘れてしまったんだけど、まあこの詩を読んでそんなことを思い出したり考えたりしたのだと、あとはこの詩はかなりいい詩なのだと、とりあえずそれだけが伝わってくれればいいと思う。

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