日めくり詩歌 短歌 吉岡太朗 (2012/07/11)

あさがおが朝を選んで咲くほどの出会いと思う肩並べつつ   吉川宏志『青蝉』

 (承前)

 
 批評における私、批評の中の読者ということについて考えてみたいと思います。

 
 定型が言葉から正気を奪う、という短歌の本質のひとつがわずかな字数で露呈され、読み手の脳と舌の中間あたりを刺激してくる。我妻俊樹さんの一首評を読んでいくと、この傍線のところに読者がいるな、ということが分かります。「私」ではなく、「読み手」という風に一般化されているものの、「脳と舌の中間あたり」という部分は、我妻さん自身の鑑賞体験に基づいているのでは、という風に想像できます。

 だが続く「ほどの」で直喩に回収されることによって、ここまでに見たものはすべてひとつの括弧にくくられてしまう。このセンテンスもまた「私の目の前で括弧にくくられてしまった」という目撃体験の反映ではないかと考えることは難しくありません。「短歌の狂気」「作中主体の人生」「作者の才気」などのタームを導入することにより、個人的な体験を一般化・普遍化したものがこの一首評である、という読み方は十分に可能なものと思えます。

 松澤俊二さんの文章もどこに読者がいるかは明白です。ところで評者は、この歌を一読後、さわやかな、ソフトなイメージを受け取った。その読者の斜め後ろにもう一人、別の読者がいて、だが実は、それは計算づく/であると、作品と第一の読者を俯瞰する位置から語り始めるのです。

 そう考えると、この男性二人の一首評が、同じ構造をしていることに気づきます。二つの位置から投げかけられる、二つのまなざし。歌の体験者としての第一の読者と、歌と第一の読者を同時に見下ろす第二の読者(解釈者)の。もちろん第一の読者と第二の読者の関係性は、我妻さんと松澤さんでは大きく異なりますが、第一の読者の視点を一次資料として批評を組み立てている、ということには変わりありません。

 ここには時間があります。

(※傍線筆者)

 
 どちらかと言えば、私は後者を採りたい。この私は、明らかに解釈者としての私です。

その私が続けて語ってゆく。丈の高い向日葵でも、華美な薔薇でもなく、朝顔と重ねられている二人の関係は、あくまでもさりげなく、慎ましい。この語りは、「そのように私は読んだ」という体験の報告であると同時に、「そのような歌である」という主張でもあります。石川さんの評には、我妻さんや松澤さんのような視線の分離は見られません。この私は、時間をかけて練り上げられた私、つまり歌を読み込んでいる私であり、歌を一読した瞬間の生な私は、その存在をとうに忘れ去られたか、あるいは巧妙に隠ぺいされたかのどちらかです。

 川野さんの文章の場合、視線を問題にすること自体が困難です。①朝顔はなぜ朝咲くのか。昼顔、夕顔、と並べてゆくと、朝顔は朝という時を「選んで」咲くのだと思える。自然の営みの中で、生き残るために選ばれたに違いないその選択は、はかないようであって、微かに意志的でもある。②その微かさに吉川の嗅覚が働いているのだ。人は人を選べるのだろうか?それは偶然か、意志か、運命か。人が人と出会う不思議は、それら人間界の手垢にまみれた言葉で考えるより、朝顔が朝を選んで咲く、あの微かな意志に代弁させたほうがずっといい。

 朝顔について語っていた(①)のが、いきなり作者への言及(②)になる。そのまま作者の技量について語り始めるのかと思えば、急に方向転換して「人」というものについての話(③)に飛躍し、けれど己の問いを、作者の問いと重ねるという手法で、再び作者の姿を匂わせている(④)。

 石川さんも、川野さんも、はじめから終わりまでを「すでに歌を読み込んでいる私」だけに歌を語らせます。生の私ではなく、武装した私。読み手ではなく、解釈者であり表現者である私。歌を体験した者としての私ではなく、歌の魅力を表現力豊かに語る者としての私が、その私だけがいるのです。「私は後者を採りたい」という石川さんの言葉は、単に「私はそのように読んだ」というのではなく、「私はそのように読むことで歌は光るのだと考える」という意思表示です。

 ここに時間はない。

 
 もちろんこの差異を男女の差異に還元するのは乱暴だと思うので、そんな風に考えていくことはしませんが、ではおそらく男性と思われるチェンジアッパーさんの一首評はどうでしょうか。

 今回の歌を読んで、第一印象は、恋愛の歌だと私は思いました。いきなり「印象」と「私」という言葉が登場します。

 肩を並べているのは大切な人で、そのひとと過ごす普通のひとときにふと、このひとと出会えて本当によかったと思っている歌だと感じました。/私はこれを「運命の出会い」と読み取りました。/子どものつたない感想文で、

 「感じました」「私は~読み取りました」「感想文」というところから明確に分かる通り、この文章は、「感想」として語られています。「感想」というのはつまり「○○である」ではなく、「○○である、と思う」なのであり、語られた内容はすべて括弧に括られることになります。ある種、夢オチのような構造です。もちろん物語における夢オチのように読者をがっかりさせるものではなく、批評を批評読者とのコミュニケーションとみた場合、ある種の場面ではとても有効に機能するパフォーマンスです。この場合がどうかはさておき。

 
 そんなチェンジアッパーさんの文章で興味深いのは以下のセンテンスです。

 歌に、詠者に、どのような背景があるか全く分からないので、歌だけからいろいろ妄想しながら読みました。

 「妄想」というのがキーワードです。この言葉はこのセンテンス以前にも一度出てきます。

あさがおを詠者が用いたのは、大切な人との思い入れがあるのかもしれません。たとえこれが妄想深読みであっても、歌にリアル感を出す効果があると思いました。

 しかし面白いことに、というか面白くないことに、妄想と言うだけで妄想の内容は語られていないのです。「大切な人との思い入れがある」というのは解釈であって、解釈を支える妄想が背後にあるはずなのです。

 けれどその妄想を「妄想に過ぎないもの」として片づけることで、妄想を描くことを免れているのです。

 もちろん妄想は妄想に過ぎず根拠のないものだから、根拠のないものは書かないでおこうと思って書かなかったのでしょう。けれどそれを書かなかったことで、妄想者=読者としてのチェンジアッパーさんの姿は背景化してしまっているのです。

 無根拠無責任な妄想を書き連ねることは、短歌の批評ではなく、すでにただの二次創作(創作として成立すればよいが)でしかないのではないか。そんな気もしますが、批評というのは畢竟二次創作への試みなのではないかとも思うのです。

 我妻さんのいう「短歌の狂気」も、川野さんの「薬剤師の後ろ姿」も、彼ら彼女らの創作物なのですし。

 だからどうせ「感想である」構造を取るのなら、目一杯妄想を逞しくして、二次創作小説を書いてくれたらよかったのにな、というのが私の素直な感想であります。

 ここには時間があり、その時間は消されています。その時間を消した痕跡がある、という風に言うこともできます。

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