日めくり詩歌 自由詩 渡辺玄英(2012/07/18)

記事にならない事件    新川和江

見ましたか? とある森かげ

しなやかに伸ばした少女の腕から
枝がのび 葉が生えて
みるまに いっぽんの木になってしまったのを
見ましたか? 青年がその木のそばで
紺の上着を脱ぎ捨てた
とみるまに鳩になったのを

(電話のベルは鳴りっぱなし 鳴りっぱなし
 誰も出ない 誰もいない 今日は日曜日)

郊外電車にあかりがつくと
人たちはそそくさとまたにんげんを着て
ビジネスの街に帰ってくるが
聞きませんか? この頃近くの牧場では
休日のあと 見馴れぬ馬が
一頭や二頭 きまってふえているという話を

(電話のベルは 鳴りっぱなし 鳴りっぱなし
 誰も出ない 誰もいない 月曜日が来ても)

新川和江という詩人に対すると、詩の名人という言葉を咄嗟に思い浮かべる。言葉への目配りの確かさ、比喩の豊かさ、イメージの展開の伸びやかさ、さして上品なユーモア。この詩人にはネガティブな批評をさしはさむ余地がほとんどない。むろん、重箱の隅をつつくように探すならば、その日本的抒情の伝統への距離の取り方の限界とか、母性や自然というものに関してのやや無警戒な態度とかが挙げられるかもしれないが、それらは決定的なものではないし、いずれにせよそれらを上回るだけの〈詩の力〉とでも呼ぶべきものが作品から伝わってくるのは称賛すべきことだと思う。

今回とりあげた「記事にならない事件」は小さな詩だ。もともと朝日新聞が一般読者にも十分に伝わるようにと依頼して書かれた作品だ。ちなみに依頼したデスクは、当時、朝日新聞に在籍していた犬塚堯である。

そのような事情から、本作はたいへん平明にしかも童話のような語り口で書かれている。しかし、読めば読むほど読者はどこか落ち着かない奇妙なすわりの悪さを感じてしまうのではないだろうか。第一連はファンタジー的変身譚だが、問題は第三連の後半だ。「見馴れぬ馬が/一頭や二頭 きまってふえている」というのだ。失踪した人間が馬になっている、というニュアンスだ。それを作者は読者に向かって、あなたは気づかないですか?と問いかけているから、どうも読者は落ち着かない気分になってしまう。そして、効果的な「電話のベルは鳴りっぱなし」という繰り返しが、不在となった人間をかえって強調していく。見事。

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