日めくり詩歌 短歌 吉岡太朗 (2012/07/24)

職安が名前をかえてあらわれる 僕も改名したいけど、雨   すずちう

(http://d.hatena.ne.jp/suzuchiu/20120304/1330882990)

 
 評に評するのは疲れたので、ここいらで短い一首評でも。
 ネットをぐるぐる回ってて何となく目にとまった歌です。

 
 一見ユーモラスな歌として立ち現われています。
 まず「あらわれる」という動詞が面白い。こう書かれることで「職安」が「僕」と同じスケールに引きずりおろされる、あるいは「僕」が「職安」と同じサイズまで拡大するような錯覚が生じます。
 同スケールになったところで、「僕」は「職安」と同じように「改名したい」と言い出すのですが、この発想の飛躍もわけが分からなくて面白い。

 

 
 もちろん改名しても変わるのは名ばかり、実を伴うものではありません。
 同じ題材を扱った作品に、「失業し週に一度は顔を出すハローワークの何がハローだよ」(滝音幸司「ユンボと水平線」)という歌がありますが、この歌にも失業という背景を読み取ることは可能です。もちろん、可能なだけでそう読まなければならないことはありませんが。
 現状を打開したいという気持ちがあり、しかしそれが非常に困難なものであることを自覚している。そんな八方塞がりの状態からこのユーモアは生まれたのだと考えるのは、自然なことでしょう。
 しかしそれは所詮無力なユーモアであり、「したいけど、雨」という風に言葉はしぼんでいき、ペーソスが滲む。

 

 
 という風に読めるわけですが、「したいけど、雨」というやり口はいかにも常套的であり、「ここで悲哀に転じてくださいね」というサインにしか読めないようなところがあります。
 恐らくこの歌は一種のパロディとして読むべきなのでしょう。
 パロディとは宙吊りの言葉であり、そこには「人生」や「生きることの切実さ」のようなものが非人称の状態で、作者と結び付けられることなく展示されています。
 展示物だからこそ、読者はそれをお手軽に消費することができる。 
 それは何も悪いことではなく、ユーモアの裏にペーソスを見ても、またユーモアに戻ってこられるような気楽さがあるわけですから、それはそれでよいことだと思いますが。

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