職安が名前をかえてあらわれる 僕も改名したいけど、雨 すずちう
(http://d.hatena.ne.jp/suzuchiu/20120304/1330882990)
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評に評するのは疲れたので、ここいらで短い一首評でも。
ネットをぐるぐる回ってて何となく目にとまった歌です。
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一見ユーモラスな歌として立ち現われています。
まず「あらわれる」という動詞が面白い。こう書かれることで「職安」が「僕」と同じスケールに引きずりおろされる、あるいは「僕」が「職安」と同じサイズまで拡大するような錯覚が生じます。
同スケールになったところで、「僕」は「職安」と同じように「改名したい」と言い出すのですが、この発想の飛躍もわけが分からなくて面白い。
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もちろん改名しても変わるのは名ばかり、実を伴うものではありません。
同じ題材を扱った作品に、「失業し週に一度は顔を出すハローワークの何がハローだよ」(滝音幸司「ユンボと水平線」)という歌がありますが、この歌にも失業という背景を読み取ることは可能です。もちろん、可能なだけでそう読まなければならないことはありませんが。
現状を打開したいという気持ちがあり、しかしそれが非常に困難なものであることを自覚している。そんな八方塞がりの状態からこのユーモアは生まれたのだと考えるのは、自然なことでしょう。
しかしそれは所詮無力なユーモアであり、「したいけど、雨」という風に言葉はしぼんでいき、ペーソスが滲む。
3
という風に読めるわけですが、「したいけど、雨」というやり口はいかにも常套的であり、「ここで悲哀に転じてくださいね」というサインにしか読めないようなところがあります。
恐らくこの歌は一種のパロディとして読むべきなのでしょう。
パロディとは宙吊りの言葉であり、そこには「人生」や「生きることの切実さ」のようなものが非人称の状態で、作者と結び付けられることなく展示されています。
展示物だからこそ、読者はそれをお手軽に消費することができる。
それは何も悪いことではなく、ユーモアの裏にペーソスを見ても、またユーモアに戻ってこられるような気楽さがあるわけですから、それはそれでよいことだと思いますが。