日めくり詩歌 自由詩 鈴木一平(2012/07/26)

元気な動物 小峰慎也

元気な動物を何かの先でもてあそんでいた
肝心なところで電池が切れた
ぐぬっという音といっしょに
親子という印象
となりには急に人間が目がねをかけた人たち
 
やがて根拠のあるうちに着いた
すぐに生活を強制され
「余ったものは返せ」と紙でまわってきた
先輩はそれをまわせたが
ぼくはそれをまわせなくて
もうくしゃくしゃになってしまったのだ
ポケットに隠してしまって
あめまみま(社長には)
漠然とした姿を見せておいた
豆が採れてきた
それに
お前は図工が得意だろう
 
連載中なのに足をのばすとか
猛威を振るったあと
海を練習

詩が詩として目の前に書かれていて、この場合はこの文章のちょうど真上に詩が載っている。さいきん、大学の講義で「詩とはどういうものかを論じよ」みたいなテーマのレポートを書くよう言われた時、詩とはどういうものなのだろうと思った。1.改行がされているもの? 2.詩の文脈に沿ってつくられたレトリックがあるもの? 3.何はともあれ詩として提出されたもの? そんな感じに箇条書きをしていくうちに n(番号忘れた)言語による、言語じたいの逸脱? みたいな、なんだよそれどっかから持ってきただろ、な言葉が浮かんできたりして、ああもう今挙げているのは全部たとえば目の前(この場合は真上)にある詩を完全に無視してしまっていると思った。こんなふうに定義をいくらでもすりぬけてしまうから詩はいい(よくないかもしれない)。ふいに思ったのは「これは○○じゃない」みたいなものの言い方って、他の媒体でもよくつかわれるんだろうか。ぼくは基本的に詩と小説しか、それも好きなものしか選んで読まないからよくわからないけれど、「これは詩じゃない」っていうのは身体の器官のどこが反応して発せられる言葉なのだろう。

つい先日、先輩の詩人から「書くことばかり考えていたら書くことが先細ってしまう」ということを言われた。「詩は(っていうか、だいたいすべてのこと)生きていなきゃ書けない(できない)から、生きることについてよく考えろ」ということも言われた。詩は言葉として完結した力を持たなければいけない反面、すばらしく巨大な外を同時に持っているというのを考えるようになったのはいつごろだろうか、なんとなく詩における「外」というものについて考えるようになった。いろんな意味での外があるし、べつにそれは詩に限ったわけじゃないけれど、書かれる外側もそうだし、書かれない外側をどう捉えるかというのはつまり、生きることと死ぬことが延長線の先(途中?)にある。生きることも死ぬこともその内部でさらにたくさんのものを含んでいる。それが詩のなかでどのように活かされているか。いや、これは本当に一概にして言えることじゃないけれど、詩が跳躍であると言われるのであれば、そこには飛び越えられてしまった何かがあるはずだろうだし、そうして飛び越えられたものは基本的に行と行の間にある余白に吸収されている。個々の詩において何が飛び越えられたのか。それは逆に言えば何が飛び越えられることなく書き記されたのかを考えることにもなると思う。基本的には小説の何倍も飛び越える多くのものを必要とするはずの詩は、どうして何かを外(書かれないもの? 無限?)として飛び越えていけなければいけないのか。ああたぶん色々と引き寄せられるようにして疑問が生まれてくる。答えられそうな気はまったくないのだけれど、そういうことを考える時間も含めて詩なんだと思った。

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