日めくり詩歌  俳句  竹岡一郎(2012/08/07)

白魚のさかなたること略しけり   中原道夫

中原道夫の第一句集『蕩児』の冒頭に置かれたこの句について、能村登四郎は「蕩児の序」で次のように語っている。

道夫さんのこの「白魚」の句は「さかなたること略しけり」は描写ではない。白魚のあのすっぺりした肌は魚である証明の鱗(うろこ)や鰭(ひれ)、鰓(えら)もない。それを言葉で表現した点である。それが道夫さんが今生きて呼吸している現代だと考えれば納得するのである。

なるほど、と私も一応は納得する。それから、待てよ、と思う。

私の師事する小川軽舟が、弟子の句を指導するとき、季語は直さない。この句にはこういう季語の方が良いなどと、決して示唆しない。その理由として「季語は作者自身ですから」。季語を直すと、作者自身に立ち入ってしまう、ひいては句の作者が変わってしまうということだ。

私は、その「季語は作者自身」という説に従って、白魚の句を変換してみる。即ち、「わたくしの人間たること略しけり」と。

この上もなく下手な変換だが、中原道夫の第一句集から第十句集『天鼠』まで通読した上で、このように読み替えたとき、「白魚」の句が、何とも胸に迫ってくるのだ。

中原道夫は、機知の作家であるといわれる。遅れてきた談林、ともいわれている。十冊の句集を読んで、機知横溢していることは明らかであったが、それ以上に、私は、作者の感じている「存在の寄る辺なさ」とでもいうべき嘆きに打たれた。

捨案山子不遇そもそも顔もたず   『蕩児』
湯ざめ顔にてこの世にもさめてをり   『蕩児』

このあたりまでは、まだ自分の顔がある。案山子であろうと、顔とは呼べぬほどの顔はあろう。しかし、次の句群になると、

噴井にて互(かたみ)に顏を入れ替ふる   『不覺』
秋泉に顏を盜られし人ばかり   『不覺』
盥ごと顏を捨てたる朝曇   『巴芹』

もう人間には本来、顔というものなどないのかと思えてくる。この句群において、顔の置換または消失が、水を媒体として行われることは興味深い。水は陰であり、幽冥を表わす。水は冷たさ極まれば氷となり、形を持つが、常温では形を持たぬものだ。

次々にうすらひ盜つてゆく聲か   『銀化』

この「うすらひ」という、水と氷の境目にあるような季語を、「季語とは作者自身である」という説に則って、私は作者自身と読んでしまう。そう読むと、「聲」とは只の声ではない。生けるもの死せるものを超えた声、生物の生死を簡単に決めてしまう声である。

その声の前で、生きているものが人か、それとも他の生物かなど、もしかしたら、些細なことであるか。

いくたびも蝶に生まれて蔑まる   『アルデンテ』
薄羽蜉蝣死にくたびれて生まれ來し   『アルデンテ』
溺れ死ぬことも出來ぬと春も魚   『銀化』

蝶も薄羽蜉蝣も魚も、皆、作者であろう。それが暗喩ではなく、作者の生き変わり死に変わりしてきた記憶ではないかとさえ思えてくるのは、これらの句中に生死の嘆きが詠われているからだ。

舞うことが生きる術である蝶は、羨望の裏返しである蔑みに絶えず晒されて、蝶として生きることに飽き飽きしている。朝に生まれ夕に死す薄羽蜉蝣は、毎日死ぬことに、もはや疲れている。魚は、最も穏やかな季に、自分が決して為し得ない、溺死という死に方に憧れる。死に方も、生き方と同じく、選ぶ自由があるようで、実は無い。

物怖ぢもせで繭籠りすることよ   『アルデンテ』

繭に籠るものは、羽化を知らずして籠る。羽化という、一旦どろどろに融け死んで甦る行為は、その虫の有為であるが、虫は有為の何たるかを知らず、如何なる所以によるのかも知らぬ。

因縁因果によって様々に生滅することを有為と名付けるのだが、有為に結ばれている限り、生けるものも死すものも、六道を絶えず輪廻して止むことがない。たとえ天に生まれることがあっても、何かの過ちで、次には地獄の鬼に生まれるかも知れず、あるいは畜生界に蝶と生まれるやも知れぬ。

奈落より一蝶生るる白からず   『顱頂』

「白からず」と詠いながら、やはり蝶の仄白さだけが浮かぶのは、奈落の闇がそれだけ深いからだ。奈落の重さにうんざりして蝶に生まれ変わっても、やはり有為の鎖につながれていることに変わりはない。「有為の奥山」とは、有為を脱する難しさを山越えに喩えたものだが、

有爲の山凍るこだまを返したる   『中原道夫俳句日記』
六道のおぼろを言ひつ舟を出す    『銀化』
花筏黄泉に客引く舟だまり   『歴草』
中陰や厚き氷の鬆(す)のやうに   『不覺』
よもつには多勢のをりて花軍(いくさ)   『綠廊(パーゴラ)』

六道の狭間、中陰そして黄泉。それらが馴染みの場所のように詠われるのは、作者の眼がいつも、生の側でも死の側でもないところに留まろうとしているからなのか。そのような眼で、我々の日々の営みと、その営みの行われる世界を見るとき、香りのように微かに、違和感が立ち上がる。

つきし羽根みな寢靜まるころに落つ   『銀化』
蛭と蛭吸ひあふこともなく暮れし   『銀化』
夜毎立つ柱の裏のささめ雪   『歴草』
まくらやみ持ちあげてゐる泉かな   『歴草』
厖大な人立ち枯れて花火の夜   『中原道夫俳句日記』
老鶯の喉元昏きほど澄みぬ   『不覺』
艮(うしとら)は靑いちじくの噴くところ   『不覺』
地下道の果ては紅燈にがよもぎ   『綠廊(パーゴラ)』

眠れぬ夜、庭に音がする。地を打つ、微かな軽やかな音。あれは昼間見失った羽根が、空の片隅から返されたのだ。

血を吸うほか生きる術を知らぬ蛭が、寄り添うときには穏やかに食を断つ。その様を悲しむように、血のように夏の空は赤い。

昼間からそこに立っている筈なのに、夜の来る度に佇み直るように思える柱。立つのは柱なのか、それとも遊離する作者の魂か。遠野物語に記される幻の屋敷、迷(マヨ)ヒ家(ガ)に属するような柱。その裏に降る、土地の記憶の断片にも似た雪。

泉が闇を持ち上げるほどの力を持つのは、黄泉と水源を同じくするからか。

花火をいつまでも咲かそうと精気を差し出し、咲き誇る花火に精気を吸われて、立ち枯れてゆく群集。

その喉元に老いと死を、ふくよかに蔵するが為、ますます澄んでゆく鶯の歌。喉元昏い鶯ほど歌が澄む、とも、人間の目と耳には昏く感じられるほど、その一羽の喉が、歌が澄んでいるとも読める。いずれにせよ、澄むとは、たそがれることなのか。

鬼門の方角に、暗い葉を茂らせ、艶やかに一斉に実り、膨らんでゆく無花果(いちじく)。その情景は、解釈しようとすれば、複数の物語を導き出すことが出来よう。艮の方角は、鬼門という異界の扉であるし、無花果とは、かの砂漠の三つの聖典、旧約聖書、新約聖書、コーランにおいて、幾重もの象徴を含んで語られる植物だからだ。私は、この句の情景を、人間の歴史に繰り返し噴き出す、世界の裂け目、不整合点として読みたい。それは時に、人間にとっては昏く感じられる神秘だ。

にがよもぎ、を意味するチェルノブイリ。ヨハネ黙示録の記述を思う。第三の御使いが地上に落とし、水の三分の一を苦くする、「にがよもぎ」という名の星。地下道は、核シェルターそれとも核施設に通ずる道か。紅燈は、危機を空しく示しているのか。

このような違和感を日常に見る眼を持つゆえ、作者が、親しい人々の死を詠うとき、ある静かな羽化、死によって人間が別の美しいものに変化するような羽化が描かれる。

正木浩一逝く 正木ゆう子に

兄の骨詩片のごとし花萬朶   『顱頂』

波多野爽波逝去

かの波も力の盡きし秋の暮   『顱頂』

悼 坂卷純子

病み拔きて白さざんかと化す骨か   『銀化』

三橋敏雄逝く 十二月一日

冬天を支ふる柱燃え盡きぬ   『不覺』

他者の死に対してはこれほど優しく触れる作者が、自らの死に対して次のように詠うのは、なぜか。

不慮の生ありて不慮の死露の玉   『不覺』

不慮の生、いわばうっかり生まれてしまった、というのは、自嘲である。そしてまた、うっかりと死ぬのさ、と言ってのける。更には、

「某誌にて冨士眞奈美さんが私宛に出した葉書のキャプションに亡くなられた俳人・中原道夫さんという誤植が發生して」という前書きで、

一死あり二死も待たるる萬愚節   『綠廊(パーゴラ)』

と詠う。前書きと合わせ読むと、まこと天晴れな振る舞い、と私など思うのだが、作者が自らの死を軽く考えているわけではあるまい。生とは何か、絶えず問うているのだ、なぜ生きているのかと。

疚(やま)しさや空を眩しくあとずさり   『天鼠』

「あとずさり」は蟻地獄の別名だから、存在自体が他者の地獄、蟻の地獄であるという、あとずさりの疚しさを読むことも可能だろう。

しかし、私はこの「あとずさり」を季語に託した動作と読みたい。作者はあとずさる、人間はあとずさる。なぜなら、空が余りに眩しいから。空と引き比べて、己の生はあまりに昏いから。人間の貪欲さが、他の生き物にとって、あまりに地獄であるからか。それとも、原罪、言い換えるなら、存在することへの間違った認識があるからなのか。

それでも、人間は生きようとする。生きるという踊りに溺れ、足踏みして死を、根の国を蹴り返そうとする。生きていてこそ己の形が摑めると思いつめる。だから、死ぬ直前まで死力を尽くして生きようとする。

根の國へ蹴り足勁き踊りかな   『銀化』
春晝を死力盡して死にゆけり   『歴草』

生きるとは澱むこと、血の色を交えて粘ることと言えるだろうか。そもそも生まれるということに、性愛が関わってくるから。いずれ熟れ、腐り出すものは、いつも澱みを秘めている。

桃の息からくれなゐに澱むかな   『不覺』

一方、交わらぬ者、孤独な弧を描いて空に沿おうとする者は、生きながらこの世を離れようとする。そこには決して止まることの出来ない努力があるのだが。

繩跳の繩は弧となり世を離る   『歴草』
燒きあがる人に菜の花あかりかな   『歴草』

火葬され、見事に乾いた骨となって、初めて人は、上がりになる。その一生の形が出来上がる。一見そう言っているかに見えるこの句だが、それならなぜ、菜の花明かりが要るのか。ここにどうしても菜の花を灯したいのは、作者の優しさであると同時に、「死んで上がり」という、一見明確な主張に対する疑問であろう。

小林秀雄は、「無常といふ事」において、死んでしまった人間は形がしっかりしている、と言った。生きている人間とは、人間になりつつある一種の動物かな、とも。

中原道夫は、多分、そんなことは思っていない。生きていても死んでいても、人間は、人間以外の生き物と同じく、形がはっきりしないものだと思っている。人間であることすら略しかねぬ、と思っている、多分。なぜなら、六道に輪廻するから。六道輪廻が、そもそも終わりのない夢なのだから。

初夢のいくらか銀化してをりぬ   『蕩児』
葛の花眠りの淵に沓揃へ   『アルデンテ』
晝寢覺流れ着きたる疲れあり   『歴草』
夢寐(むび)にさへ春の瀧壺出でられず   『歴草』
春濤の何うち碎く夢寐(むび)に波止   『中原道夫俳句日記』
萬里來て戻れぬ日なり晝寢覺   『不覺』
晝寢覺まだし羽化にも程とほき   『天鼠』

夢は銀化するほどの何千年を超える時間を蔵して、それはそうだろう、夢に入るとは一旦死ぬことだ。

「昼寝覚」という季語は、一旦死んで甦るの意であると、昔、教えられた。けれども、もっと本当を言うなら、いくたび甦り、死に変わり生き変わりしようとも、六道輪廻の外に出ない限り、目覚めることなど無い。

陰を、幽冥を表わす水の流れは果てしなく、時に瀧の叩きつける如く容赦なく、どんな波止も効を奏せず、さて戻るとしても、いつの、如何なる生に戻れば良いのか、眠る前、果たしてどの生を生きていたか。どう生きていようが羽化登仙していなかったことくらいしか思い出せない。そうして眼を覚まし、またしても生き始めて、

ふらここを乘り捨てて世に存(なが)らふる   『銀化』
まだ死なぬまだ死ねざるを蒸す夜かな   『不覺』

と、永らえる意義に煩悶し、まだ生きている意味を、ぶらんこの揺れて行き来するように探り、疑問を蒸し返し、生きよと自らに熱っぽく言い聞かせても、

雪原にただ皚皚と死後を佇つ   『巴芹』

と、照り映える一振りの刃のように死に入ろうとも、己の形は摑めない。眼を見開いて見抜こうとするほど、この世の価値観、この世の栄華の正当性を疑い、社会的動物という立場から離れてゆく。

飛込の途中たましひ遲れけり   『アルデンテ』

プールに飛び込むときの気後れを、絶妙な機知で言い表したとされる、この有名な句も、実は別の意味を帯びているのではないか。つまり、作者にとって、魂は僅かなきっかけで体から遊離するものではないか。

魂を遊離させてしまうのは、作者の、生と死の間でいつも疑いつつ、世界の形を探求する眼であろう。「飛込」という、一般にもわかりやすい例を挙げて、読者の共感を得ている、或いはおどけた振りで煙に巻いているだけであって、本当に作者が言いたいのは、実は機知など入り込む余地のないほど差し迫った、魂の遊離感かも知れぬ。

初蝶をばらばらにして形身分け   『不覺』
袂出づほら初蝶のこなごなよ   『巴芹』

蝶が魂の暗喩であるのは明らかだが、これは一体誰の魂か。先にあげた弔句の優しさを念頭に置くと、作者自らの魂ではないかと思える。蝶に対して、あまりにも突き放した言い方だからだ。

自らの魂をばらばらにして、親しい人あるいは後進に配る。神道には、「分(わ)け御霊(みたま)」という概念がある。魂は分けることが出来るし、分けられた魂は、複写されたように祀ることが出来る。

けれども、生きている内に、おのが魂の形見分けをして置きたい、それはなんと切ない。作者は笑って、袂を探ってみせるのだ。「ほら、どうせ粉々になってる」

澄むこころ月の重さに耐へてをる   『歴草』

月の重さは、生きる重さ、死ぬ重さである。月は、生き変わり死に変わりしてきた記憶を見ている作者の、閉じない眼だ。眼は、苦しんでいる。

いにしへのままをくるしむけふのつき   『綠廊(パーゴラ)』

月の苦しみとは、月の照らす地上に生きる人間の苦しみでもある。何も変わらない。生死に、愛憎に、孤と多に、あらゆる二元対立に引き裂かれたまま生きてゆく苦しみは、いにしえより変わることがない。喘ぎつつ綿々と生きて来た人々の記憶を、作者は例えばこんな風に詠う。

どの村も白痴かくまふ田植季   『蕩児』
生ひたちのいづれも暗き花めうが   『歴草』
雪暮れや憎くてうたふ子守唄   『不覺』
春深しどの家も閒引く子のをらず   『巴芹』

ある時代までに日本に育った者なら、これらの句は一種懐かしい悲惨さとして共感できる。どの共同体にも白痴と呼ばれる、神の代弁者はいた。どの家の系譜の深みにも、間引かれた子供たちは漂っていた。

それら匿われ、隠されてきた者たちの思いは、風土に沁み込み、風土に生活(たつき)を立てる人々に沁み込んで、郷愁と見紛うばかりの儚い恨みは、しかし確実に業を形作り、引き継がれる。

業火には業火の丈や星汚る   『中原道夫俳句日記』

その業について思惟すること。先の大戦について、文明の興亡について、もう久しく前から滅びかかっているこの星について。

戰艦を沈めて秋の水位かな   『歴草』
戰前に鳴き戰後掃かれたる蝉   『不覺』
ラーゲリに紋白蝶の骨殘る   『天鼠』
大食(サラセン)は一夜荒星にて潰え   『巴芹』
亡びにし星ふところに涼みけり   『歴草』
頽廢(すたれ)ゆく星に追儺のをんな聲   『銀化』

戦艦が何十隻沈もうが、海の水位が変わるわけではない。玉音放送の前に響き始めた蝉声が、永遠のような正午を経て、その蝉が掃かれたときには、もう戦後だ。シベリアの収容所(ラーゲリ)で何十万の日本人が死のうが、骨のない蝶の骨ほども残るものはない。

一つの文明が一夜にして亡びようと、地層のように積み重なる数多の文明に苦しめられてきた星が亡びようと、間引きされた子が名もつけられぬまま忘れられるように、永劫の流れに、夢と沈むだけだ。

作者の、幽明の境に見開く眼は、間引きされた子と、亡びる星を、同じ重さで悲しむ。夢と沈ませまいと、句に刻んでみる。

冬鷗この世を不治と流したる   『顱頂』
四散せる鳩惠方などあるものか   『巴芹』

幸福も栄華も、やがては四散し、恵方など世にはなく、全てが不治の病に冒されている。愛したり憎んだり殺したり恨んだり、この世に限ったことではない。あの世も、三千世界のどこまで羽ばたこうとも、業という不治の病に冒されている。冬の鷗はそんな世を諦めて流れ流して行くが、見えぬもの、聞こえぬもの、遙かなものを思惟する人間は、諦めるわけにいかぬ。

    フィレンツェ

歪みはつかに塔いかづちを躱すたび   『天鼠』

「フィレンツェ」の前書きに、まずはピサの斜塔を思う。前書きを外すと、私はバベルの塔を思う。天に届かさんとして神の怒りを買い、稲妻に打ち砕かれた塔。

それは我々の行く末だ。天譴(てんけん)を躱すたび、文明はのたうち、僅かだと思っていた歪みはもう取り返しのつかないところまで来ている。そして文明の業の果実が熟れ、ある日、唐突に落ちる。その前で、命懸けで何に殉じようとも、もはや犬死なのか。

犬死には犬にはあらず花の雨   『天鼠』

どう在ろうとも、滅び忘れ去られるものばかりなのか。美しいもの、高らかなもの、己の一生の丈を超えると信じたいもののために身を奉げようとも、犬死なのか。だが、犬ではない。人間は、悦楽が、衣食住が満たされて、それで足りるわけではないから。高みより降り注ぐ花を浴びるように、もうこれで良い、と思えるものがあるはずだ。

白露かな濡れを乞ひたる火や眼球(めだま)   『銀化』
おぼろ夜の千手觀音千の腋   『顱頂』
臺(うてな)より眺めて夏の景色かな   『顱頂』

濡れを恋うのではない、乞うのだ。乞食(こつじき)であり、托鉢である。火は、燃え盛るものは、人間の、存在しようとする激しい衝動であるか。暗黒から抜け出ようとする欲望ゆえに光から遠ざかるが如き、業のジレンマ。己を確立しようとするが為に、滅び行く無常の己しか見えなくなる矛盾。白露もまた、瞬く間に乾く。見開いて見抜こうとする眼が、永劫の前で瞬く間に乾くように。

救いがどうしても必要だ、この朧夜のような六道に。千の独自の苦しみには、千の独自の救いが。千人の救いには、摩耶(まや)夫人の千の腋が、千人の仏陀の生誕が必要だ。

蓮のうてなから、六道に属さない常住の蓮華座から、仏の眺めるであろう景色を思ってみる。智慧の強烈な光と、その光にありありと照らされる業の漆黒の影。あたかも夏の日盛りの景色のようなコントラストを。

その夏の景色の観想は美しいだろうか。個々の苦しみは、全体としては調和する模様のようであろうか。

いや、不協和音である。その打ち重なり、絡み合う不協和音の苦しみを、大悲の耳を以って、良く観ずること。衆生の苦しみの音声(おんじょう)を良く観ずるがゆえに、観音と名づけられる境涯のように。

平均臺降りて夏果てとも違ふ   『中原道夫俳句日記』

この句の奇妙な突き抜け方を、どう捉えればよいのだろう。平均台を歩くのが、危ういバランスを取りながら進むこと、生きることだというのはわかる。降りれば夏は果てる筈だ。また秋が来て冬が、春が来る。そうしてぐるぐると季節は輪廻する。

だが、「夏果てとも違ふ」。夏は果てないわけではない。永遠の夏に降りたわけではない。夏とは別のところ、巡り行く季節とは別のところに降りた。多分、一瞬だが、そういうところに降りた。そこは、一体どこだ。そのいぶかしさが、いつまでも続いている。

貸してごらん峯雲はかう崩すもの   『巴芹』
耕して天を降り來るところかな   『巴芹』

峯雲をいとも容易く崩すその手は、何だ。その自在なる手は、誰の手だ。天を耕す手は、足腰は、やがて地上に降り立つ体は、一体誰のものだ。作者はその不思議な体を時々わがもののように思うのだが、果たしてその体は六道に属するものか。

虹舐めて麒麟は脚を疊むなり   『綠廊(パーゴラ)』

神獣麒麟は天駆けているとき、ふと立ち止まる。虹を舐めて、その身を天の外れに休める。何もかもが明るい。天の何もかもが明るいとき、地上では、

夏逝きて膕(ひかがみ)疊む音ばかり   『天鼠』

人の世の、人が発する美しい諦めの音。正座の際の、微かな衣擦れの音。一番輝かしい季の衰えを悼むかのような音。業に従って生きる人間が為し得る最善のことは、病むときには静かに病み、老いるとき静かに老い、死ぬときに静かに死ぬ、それだけだ。

いや、違う。まだ聴いたことのない響きがあるはずだ。補陀洛の海を渡り来る燕のように、韻律が。

つばくろや鐘の中には未生の韻   『天鼠』
いづくから屆かむとする光凍つ   『天鼠』

まだ光は届いていない。まだどこかで凍てている。光が凍てているのは、人間が、この私がまだ、凡夫だからだ。

日照雨いま凡夫を跨ぐための霓(にじ)   『天鼠』

日照雨とは、二元対立を跨ぐような天候である。日は照っているのに雨が降っている。陰陽の狭間であり、陰陽を兼ね備えている。そこに今、記憶である過去でも、期待である未来でもない、今現在に、懸かる霓(にじ)。

虹には雌雄があり、雌を霓または蜺と記す。だから、この霓は産む性の霓である。果たして、凡夫の対義語で称せられる者を生む霓であるか。

この六道に住する有情無情、凡夫でないものなど何一つない。二千五百年前に或る一人が到達した境涯、その者が生涯かけて遍歴し、説き続けた境涯を除いては。あらゆる二元対立を軽々と跨ぎ、業のくびきを砕き、無常を超えた境涯。人として生まれながら、梵天や阿修羅にさえ道を説く境涯。

祝祭はあるだろう。この惨たらしい、業の歯車の軋む世界にも、常に祝祭は開かれているだろう。花火はいつでも昇り、闇も憧れに熱を持つ。その熱に、人の心は、まっしぐらに空を目指すだろう。

水銀(みづかね)も柱を曻る花火の夜   『天鼠』

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