日めくり詩歌 自由詩 鈴木一平(2012/08/13)

肴、烏賊の場合 岩佐なを

勘定はまだなのに

場末の呑み屋の奥の
階段を降りると
地下鉄道のプラットホームだった
線路の向こうの壁にひとがたの影がみえた
影ではない、やぶれた穴を
コンクリートで塗りこめた
ひとがたのあと
そういうものたちから昔は
よく声をかけられたが
この頃はみな静かなものだ
(いくら待ってもほんものの電車は来ませんよ)
(この線路の少し向うでひとが死にましたぜ)
と話しかけられそうなことを
自らの口で呟いてみる
よっぱらいったら、よっぱらい。
脳がしっとりと濡らされている夜
ほい。
もうじき紋甲烏賊の電車が
手足をせわしなく操ってやってくる
うすあかるい車内に乗り込むと
座席には光る目の子どもたちが数人
行儀よく座っているだろう、卵もあるかしら
びやうびようと時々発光する
烏賊語で話して
電車はすみを吐いて
地下水路をあからさまに汚しながら
深夜の海の街まで走ってゆくのである

空行を開けなくても、しっかりと行と行の隙間にある断絶を捉えて、それだけじゃなくて自在に次の行との距離を操るのはむずかしい。「勘定はまだなのに/場末の呑み屋の奥の/階段を降りると/地下鉄道のプラットホームだった」と「自らの口で呟いてみる/よっぱらいったら、よっぱらい。/脳がしっとりと濡らされている夜/ほい。」の二つの引用の、「/」によって表されている距離がだいぶ違う。後者の方が明らかに遠い(はず)なのに、その間の断絶を下手に行を空けることで表現するのではなく、目で見るぶんには同じ隙間にかけられる遠さをこの作品は巧みに処理していて、こうやって思い切れるんだと思う。いや、一方でそういう距離とか断絶の間合いは、詩のなかで絶対的にあるものではなく書き手/読み手の間、まだ読み手/読み手の間でだいぶ違ってくる距離感かもしれない。ぼくが単に「距離があるなー」と思っただけかもしれないとも思う。

最近は詩とそれ以外、ということを考えていて、前も同じことを考えていたかもしれないけれど、確認してはいないのでよく分からない。前も同じことを考えていたのなら、だいぶ長いこと自分のなかのテーマとして大きいものなのだろう。詩とそれ以外を分ける基準はたぶんひとつではない。実際に提出された場合のパッケージの問題以前にいくつかの層があって、詩/小説(一例として)の厳密な区別をしなかった研究者もいるように、要素の問題として詩はさまざまな媒体の間をまたがっている。だから、詩に固有なものを意識することはどういった展開になるのだろう。態度の問題? 濃度の問題? 単に媒体の問題? たぶんここ何年かの間、下手をしたらもっと長い時間をかけてぼくは考えていくのだろう。

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