日めくり詩歌 短歌 吉岡太朗(2012/8/30)

冬の駅ひとりになれば耳の奥に硝子の駒を置く場所がある
大森静佳「硝子の駒」


諸行無常とはいいますが、無常という概念一つを獲得するにも、「常」がまずあって、それが否定されねばなりません。
私たちは日々うつろい、変化を続けますが、しかしそれは同じような繰り返しを前提としてのものです。
日が昇り、また沈む。眠り、また覚める。同じ道を何度も歩き、およそ同じような時間に食事をとる。同じ人間に何度も会い、同じ言葉で別れる。農業は決まった時期に種を蒔き、決まった季節に収穫するもので、平常通りに事が運ぶことを何よりとしています。稲作のサイクルが永遠に循環することを願い、これまでそのサイクルを回してきた者――つまり先祖に祈りを捧げる。このような思考が日本の祖先信仰の土台を作ったという説もあるそうです。

しかし無常という言葉が言い表す通り、循環する時間が、同一の座標に円を無限生成することはありません。
同じように、一日を過ごすかも知れないが、からだは少しずつ成長、もしくは老化している。農業も、ずっと続けていれば土壌も変わるし、技術もどんどん改良されていき、農業自体を取り巻く環境も変わる。
経験されるものとしての時間は、差異と反復、あるいは差異の反復によって成り立っています。
昨日と今日は同じような一日かも知れないが、けして同じ一日ではない。仮に全く同じ一日が反復されたとしても、「全く同じであった」という認識の生じること自体が、差異となります。

時間の描く円には様々な周期のものがあります。一年というサイクルもあれば、瞬きごとにというのも周期の一つです。同じ一日がやってきたというのに、もう夏は暮れ、秋の風が吹いている。
反復され回帰した時間の中に差異を見出すことにより、人は時間の経過というものを知るのでしょう。
時間は円を、しかも一つの円ではなく様々な円を描いて流れますが、認知される時間経過は常に線形です。ある点Aとその反復としての点B、点C、点D……をつないで一つの線とするのが認知の働きです。
今目の前にある桜を見ながら、去年の桜を思う時、その間の時間は省略され、去年と今年の一点のみが直接リンクするのです。これはなかなかに不思議な現象で、リンクされている去年の一点は、リンクされている限りにおいて、とても近しいものに思えるのに、改めて今日、昨日、おとといという風に時間を逆回しで認識しようとすると果てしなく遠いことに気づくのです。
あたかも時間の流れというものが、二つ以上存在するかのように。

去年・今年のように時計時間では計れる周期の円もありますが、そうでないものもあります。
マドレーヌの紅茶に浸した時の香りが幼年時代の記憶の想起につながる、というとプルーストですが、その香りを再び経験するということは、まさに嗅覚の衛星が軌道を一周して戻ってきたことを意味します。一周して過去に回帰したのです。
同じ痛みであったり、同じ悲しみであったりというのもそうです。その中でも嗅覚由来のものが最も強いようですが、このような感覚が想起させる記憶というのは、ことさらに鮮やかなものであるように思います。
私の今住んでいる京都と故郷の土地では空気の質感が多少なりとも異なります。帰省して町を歩いていると記憶がよみがえってきますが、帰省した事実やそこにある光景よりも、首筋に触れる風の温度や感触などが、より多くの記憶をよみがえらせているような気がします。


耳の奥の深い場所。
沈み込んでいく意識。
童話のようなイマジネーション。
その場所はいつでもそこにあって、いつでもあなたのために用意されている。
かつてあなたはその場所を作り出した。
その時もあなたはきっとひとりぼっちで、冷たい風だけが吹いてくる静けさの中で、その場所を形成したのではないでしょうか。
以来、幾度もそこを訪れている。
硝子の馬がチェス盤に置かれ、その深い記憶の音をあなたは聴く。
かつてそう聴いたように。
その場所で過去のあなたはとても近くにいる。
けれど絶対的な遠さ。
恋の対象へと限りなく接近していく時、無限の隔たりを感じるように。


祈るようにビニール傘をひらく昼あなたはどこにいるとも知れず
尊さと遠さは同じことだけど川べりに群生のオナモミ
外国の硬貨のレリーフのような横顔ばかりのあなたと思う
水切りの石を選んで届かない言葉かアポリネールの石は
辻褄を合わせるように葉は落ちてわたしばかりが雨を気にする
その靴の踵を染める草の色もうずっと忙しい人である
遠くなったり近くなったりして夢のリノリウムの廊下に君がいた
水細くして洗う皿もう君が学生でないこと思いつつ
切れ切れに姿みとめて帰りゆく石塀があちこちで途切れて

モチーフの観点で見れば、日常という枠の中で、様々なものを描いており、それが豊かさとなっているのですが、通底する主題は変わらない。
「恋愛とは、近さを志向しつつも、近さの中に遠さを見ることである」という観念をただただ反復しているのです。
けれどその反復に次ぐ反復が蓄積となる。蓄積とは差異の連続です。連続された微かな差異は、いつしか決定的な流れを生む。自転を繰り返す地球がいつしか太陽の周りをまわっているように。生物種の進化が、気の遠くなるような同じ営みの繰り返しの中から起こってくるように。

途切れない小雨のような喫茶店会おうとしなければ会えないのだと


指先をひたしていれば晩年にこんなに近い噴水のみず

時間についてあれこれと言ってきましたが、ここまでは過去の話ばかりでした。過去というのは想起された記憶のことです。もう少し言えば、現在とリンクする形で、直列つなぎに編集された記憶のことをいいます。編集されることではじめて記憶は線形を取り、過去→現在という流れができるのですから。
では未来とは何でしょうか。未来は現在の中に、あるいは現在と過去の中に存在します。それは囁き声のようなものでしょう。人は目の前にある事象から、あるいは想起されてくる記憶の指し示すものから、未来の声をきくのです。
噴水のみずに指を浸すというシチュエーション。その時の気候の具合。指に触れる水の質感。からだに触れる空気の質感。心理状態や想起されている記憶の種類。それらの相互作用が、その時一度限りのクオリア――「此性」を生み出す。そして、その「此性」が、たまたま晩年という記号と結びついたところから、未来が立ち上がる。ここでは、立ち上がりの運動のみが書かれ、立ち上がった未来自体はその気配のみが書かれているに過ぎないのですが。
従って、未来とは常に予知・予想というかたちでしか存在しません。よくても仮説に過ぎず、空想・妄想の類と明確に線引きできるものではありませんが、しかしその存在は現在へと確実に作用します。

もみの木はきれいな棺になるということ 電飾を君と見に行く
湯に変わるまでを待たずに手を洗う不信へ至る青い夢より覚めて
光りつつ死ぬということひけらかし水族館に魚群が光る
返信を待ちながらゆく館内に朽ちた水車の西洋画あり

もみの木、夢、魚群、西洋画。
それらのモチーフが囁く、棺、不信、死、朽ちた。
囁き声の集積は、そして明確な一つのビジョンを作り出します。

ハルジオンあかるく撓れ 茎を折る力でいつか別れるひとか

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