日めくり詩歌 自由詩 渡辺玄英(2012/09/06 )

夜   山本哲也

浴槽から首だけだして
男が 湯にはいっている
湯のなかの陰毛がゆらぐ
このような姿勢で死ぬひともいるのだ
そうおもうと気が休まる
浮いている髪の毛を
プラスチックの洗面器ですくう
じぶんを救いながら
ここまでやってきた
ぼおっと ガスバーナーの音がしている
きのう川原でみた
そのひとは
じぶんの頭ほどの石を
くろい鞄につめこんでいた
そのひとだって年をとる
だからこれからいくども
川原に出かけていかなければならない
くろい鞄をもってね
百までかぞえたら出てもいいぞ
ほんのひとにぎりのことばが
ひとを湯のなかに沈めたことがあった
ガラス窓のむこうで
身をひそめしゃがんでいるひとの闇もある
それが男の気を休める
くさりに足をひっかけ栓がぬける
だが男は
しんぼうづよく肉を沈めている
湯の最後の一滴が排水口に吸いこまれ
やがてぶざまに残る
裸のじぶんを見とどけるまで

(詩集『静かな家』一九八五年)

耐えがたいものを耐えて、生き続けることがある。戦争や大災害のような非日常的な悲劇や苦難に耐えねばならない場合もあるが、この作品に描かれる耐えがたきものは、日常や生活のなかでじわじわと人を錆つかせてくるような性格のものだ。浴槽の湯に「ぶざまに」しかし「しんぼうづよく」身を沈めている男。どこにも劇的なものはなく、どこまでも日常にまみれた行為。もしかしたら男が抑圧されているのは、日常において普通を維持し続けることの狂気や異常をじっと見つめているからかもしれない。それほど、この普通にみえる男は、きわどい境界のようなところで、「死ぬひともいる」姿勢をして、「身をひそめしゃがんでいるひとの闇」をみつめながら「湯にはいっている」のだ。

こうした、日常にひそむ圧迫感にリアリティを与えているのは、むろんモチーフ自体の説得力もあるが、「湯のなかの陰毛がゆらぐ」や「浮いている髪の毛」といったぶざまなまでの生々しさだろう。さらに、「百までかぞえたら出てもいいぞ」という、幼いころに親からかけられた言葉を提示して、作品の背景に時間の(つまり生の)厚みを感じさせるあたりも巧みに効果をあげている。

作品の中盤に、「じぶんの頭ほどの石を/くろい鞄につめこんでいた」川原で見かけた人が登場する。浴槽の発話者は、その川原のひとを思い浮かべ、自分も「これからいくども」「川原に出かけていかなければ」と考えるように、この川原のくろい鞄の人物は、暗示を与える存在として位置づけられている。まるで石化した自分自身を「くろい鞄」で回収するかのようなイメージ、と解釈できないだろうか。砂をかむような、という慣用句を想起するが、ここではくろい鞄を持つもうひとりの自分が「じぶんの頭ほどの石」を繰り返し鞄につめる。おそろしいまでの不毛といえるだろう。

不毛なのは、ひとがいつか死ぬからではない。理想がありどこに向かって走ればいいのかが明瞭な、ときとして燃え上がるような人生を生きることが困難な時代にわたしたちは存在しているからだ。劇的なものから遠ざけられた、錆ついていくような生。緩慢におとずれる死を待つしかない人生を悟ったとき、わたしたちは何に救いをもとめるだろうか。そこには「浮いている髪の毛を/プラスチックの洗面器ですくう」くらいの救いしか、用意されていないのかもしれないのだ。

「ぶざま」であっても、「裸のじぶんを見とどける」こと。内面の狂気をこらえつつ、ただしんぼう強く耐えつづけるしかない。死の姿勢をとりながら耐え続けることが、かれの闘いであり、ぶざまを見つめ晒すことが、かれの勇気にほかならないのだと思う。

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