桔梗の花 嵯峨信之
わたしが夢のなかで折つた花を見せましよう
うす水いろの桔梗の花を
小さな発電所の横で手折つてきたように
いまもふるえているうす水いろの花
それをあなたの心の一輪ざしに挿しましよう
すると未知の世界がそつとあなたのものとなるでしよう
そして花はしずかな時をあなたに贈ります
詩集『愛と死の数え歌』(1957年詩学社刊)所収
『嵯峨信之全詩集』(2012年思潮社刊)93頁
この詩を読んで、いちばんあとを引くのが、3行目の「小さな発電所」だ。青いキキョウの花の叙情性との距離感が不思議な雰囲気で意識に引っかかる。引っかかったまま、何の解決もないまま、日常の中に沈みこみ、忘れている。
東日本大震災による原発事故が起きて、はじめてああ、これだったのだ、と納得が行った。散歩などに出かけると、街のはずれの端切れのような角地などに、月並みなフェンスで囲った小さな設備を見かけることがある。何の装置なのだか、よく知らないまま通りすぎる。キキョウはそんな人工の設備の置かれた草むらの中にひっそりと自前で咲いていたりする。完全な野生の花だ。そのブルーは、もう少し若い夏のあいだは露草の花に宿っていた。風が少し冷たくなってくるとキキョウが咲き始める。植物の命、それは自然という大地のエネルギーが創る気晴らしの遊戯のようなもので、美しく花咲き、たちまち終る。そしてまた季節の循環につれて世代をかえて花咲く。
人間も植物と同じ循環のサイクルで花咲き、生かされているはずだ。自分で発電しようなど、大自然への冒涜である。だがこの詩は「小さな」という形容詞でこの人工の自然フェイクをキキョウの青に調和させに行く。発電という人間の背伸びのかたち、それは「小さな」であるうちは許される。素晴らしい賜物として人はそれを享受することができる。だがその「小」を逸脱し、「大」発電設備に手をつけた時点で、キキョウの青は消え去る。もう戻ってこない。残るは殺伐たる破滅のみ。この予言的な詩句、自然と人工とのぎりぎりの境界線を、この詩は予言していたな、と思うのだ。