日めくり詩歌 短歌 吉岡太朗(2012/10/08)

腐蝕のことも慈雨に数へてあけぼのの寺院かほれる春の弱酸

山尾悠子「跳ねるうさぎ」『角砂糖の日』

 あめつち、
 を漢字で書くと天地。
 あめつち、
 は天と地に分かれる。
 目が得意とするのは線を引くことだ。
 目は今まさに一つの線を引いたところである。
 「腐蝕」と「慈雨」がその線に区分される。
 それは別の作業を同時に伴っている。むしろ手順としてはこちらが先だった。
 語の感触から、「腐蝕」にはマイナスの、「慈雨」にはプラスの印象を引き出したのだ。
 マイナスということプラスということの他には、この段階ではまだ分析は加えていない。何となくそう思うという仮説に基づいて、いったん線を引いてみたのだ。
 それは地図を描くことに似ている。地図は実際の地形に何ら直接的な作用をもたらすものではない。しかしひとたびできあがった地図を見る者にとっては、もはやその地形は地図を見る前の地形と同じには見られない。その地形を、描かれた地図との対応関係でとらえてしまうからだ。
 認識の次元においては、地図は実際の地形に大きな変化を加えるということである。人形に刺す釘が人を呪うのと同じ方法で、地図上に引かれる線は、実際の地形にも線を引く。
 余談が過ぎた。ともかくも線は引かれたのだ。土地は変容し、その時から対立を持ち始めた。天と地の分離を得たのだ。それと同時にこの対立が入れ子であることも、目は見抜いている。
 「腐蝕」と「慈雨」の対立が存在するのは、土地の北半分のことであり、南方は「寺院」と「弱酸」が「あけぼの」と「春」に彩られた別の土地であるということにだ。
 北端の地が過剰に肥大し、音律的にも正常な調和とは違うところにあることも気づいている。
 けれど何よりも目は、北方に自らが引いた線に目をこらすことから始める。

 対立として引いた線が、土地の中で実際に対立しているわけではないようだということに、もう目は気づいている。
 「腐蝕のことも慈雨に」なのだから、「腐蝕」が「慈雨」であるという同一視の構図だ。概念の大小も考慮に入れれば、「腐蝕」が「慈雨」に包摂される関係がそこにはある。
 重要なのはあらかじめ組み込まれていたのではなく、今まさに「数へて」と記された段階で組み込まれたのだということだ。元々計数されていたのではなく、今「数へ」られたのだ。そしてそれは「腐蝕」のマイナスを反転させることにつながる。
 「腐蝕」と「慈雨」はイメージ的に対立するものだ。少なくとも目はそのような感覚を持っていた。その前提となる感覚があって、それが覆される。その覆す力に、目が反応している。驚くという程でもないが、快い刺激をそこに感じている。

 それから道が二つに分岐するのを目は予感している。
 一つ目の道筋は、引き続き、「数へ」という動詞に注目することだ。それから、ここでは「も」という係助詞にも留意する必要がある。
 ここで目がまなざしたのは、時間である。「腐蝕」は「慈雨」の一部に計数されるものであり、その他の「慈雨」がいくつもこの「寺院」にはあったのだという。目の意識は南方の「寺院」にまで連続している。
 古い寺院だろう。幾多の朝と夜を、陽のひかりと雨を経て、今この「あけぼの」の刻にたたずんでいるのだろう。その時間の中で材木が傷むこともあっただろう。けれどそれさえ天の恵みの一つであり・・・・・・という風にイメージが展開する。時間がそこに現出する。その「寺院」が築かれてから現在までの時間経過が。
 「寺院」は日本のものが勝手に浮かんでいる。「腐蝕」が木造の印象をもたらしたからであるし、「あけぼの」と「春」といえば、枕草子であるからだろう。けれどまだ自己の認識が何に由来するかという解釈をおこなう段階ではない。目には、そのイメージがまだ浮かんだばかりなのである。そのような作業は、まだかなり後になってすることである。

 もう一つの道筋。それは違和感である。
 「腐蝕」は雨ではない。「慈雨」は雨でしかない。「腐蝕」は雨の結果であり、「慈雨」は雨であるからむしろ原因の側である。目は理屈ではなく直感で、その齟齬に気づいている。
 「腐蝕(をもたらした雨)」も「慈雨」である、という風に解釈すれば合理化もはかれるかも知れないが、その解釈はまだ目には訪れていなかった。また、訪れていたとしても、その解釈に納得したかは別の話である。
 目は続けて、より別の違和感に向かう。「かほれる」についてである。
 目はまだこんなことを考えるには至らないが、要するに「寺院」と「かほれる」の間に省略されているのは、どちらなのだろうということだ。「寺院」と「かほれる」を接続する助詞なのか、断絶する一字空けなのか。つまり香るのは「寺院」なのか「弱酸」なのか。
 意味的な合理性を考えるなら、「弱酸」が香る方が自然だ。「腐蝕」は酸性雨によってもたらされるのだろうから、「寺院」にその酸の香りをどことなく感じるということなのだろう。実際に香らなくても、何となくそのような気がするというくらいでもいい。「あけぼの」「春」の古典的な世界観に、酸性雨という現代的事象が侵入するという、ここにも対立構図が見られる。
 けれど韻律的な連続性を考えると「寺院かほれる」と「春の弱酸」なのである。寺院が香るように錯覚してもおかしくない。目の第一印象は、こちらの方向に引きずられた。
 しかしこのことがもたらした不思議な印象は、あるいはマイナスのものではないかも知れない。
 そびえたつ「寺院」が香りに還元され、まぼろしのように消えていく。「腐蝕」「慈雨」の微かな齟齬と呼応して、どこか景がこの世のものでないようなそんな印象がもたらされてくる。

 それから目はまばたきをする。
 そしてもう一度土地を、この一首の歌をまなざしてみる。 
 けれどそれは今まなざしたことを、もう少し理知的にたどり直すということでしかないから、ここでは記さない。

 

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