日めくり詩歌 短歌 高木佳子(2012/10/16)

空色の壁に囲まれ人はなぜ羽根あるものを飼ひたがるのか  山田航

『さよならバグ・チルドレン』(2012年・ふらんす堂)より。

この人の第一歌集を、(この人の場合、処女歌集、と言った方がぴったりくるような気がする)待っていた人は多いのではないか。
君嶋真理子さんのポップだが寂しさをも同時に感じる装幀のこの歌集は、山田航の世界観をそのまま把握できる歌集でもある。
なぜ、こんなにもさびしいのか。
それは作者が「たぐいまれな才能の持ち主でつねに孤独であったから」ではなく、「たぐいまれであることを違った意味で自覚しているから」であろうと思う。なにかが人と違うという違和感が彼を長年の間に苦しめ、だが生かしてきたとも言える。
「僕はホームランを打ちたかった――あとがきにかえて」では、

ホームランが打ちたかった。打った瞬間にわかるような手応えを感じたかった。(中略)現実を変えていくよりも自分の中の意識を歪曲してしまうほうがはるかに楽だ。十歳のときも、十四歳のときも、二十二歳のときも、いつだってそうだった。ボールを確実に芯で捉えて振り抜くように、的確に最短距離で思いを言葉にすることができなかった。心と体の接続がうまくいかなかった。

と。幼い少年の日から、ずっと周囲へ伝達するときの違和や不全感を抱えていたことを告白している。しかし、この述懐の後半で、彼は短歌定型と出会ったときに、はじめて、その確かな手応えを感じたのだとも言っている。「僕は五七五七七を手に入れたのだ。」と。
短歌との出会いは、作者にとっての不全感を払拭する方法としてとても有効に働いたのだと思う。不全感を持ちつつ生き続けることが多いなかで、この出会いは幸運だった。彼は彼自身に言うように、やっとスタートラインに立ったのだ。

掲出歌は、作者の苦しみを端的に顕しているように思える。ふつうなら、自由にどこまでも拡がってゆくとも思える空も、作者には「空色の壁」に見え、加えて、羽根あるもの=飛び立つことができるもの の象徴を手元に置きたがるように見えている。この歌では閉じこめられるファクター(壁に閉じこめられている人・羽根あるもの)が二つ、歌に入っていて、閉じこめられて人は苦しむべき筈なのに、なお羽根あるものを飼いたがるという矛盾を見つめ、第三句の「人はなぜ~か」でさらに疑問として強く提出される。
このような、自分を取り巻く周囲への不全感ただよう歌は、歌集全体を通して詠われている。

走らうとすれば地球が回りだしスタートラインが逃げてゆくんだ

打ち切りの漫画のやうに前向きな言葉を交はし終電に乗る

交差点を行く傘の群れなぜ皆さんさう簡単に生きられますか

「なぜ皆さんさう簡単に生きられますか」…他者に問いかけるような、自分から働きかけをする歌は案外今の若い世代の歌人では少ないのかも知れない。作者の場合、その苦しみはいつも他者との関わりの中から生まれてきていて、誠実にその苦しさを克服するようにもがいていた部分で、以前からこの場で読んできた「違和感を抱いている」歌人とは異なった苦しみ(不全感)を持っている人なのだと感じる。その不全感を払拭できるものが短歌だったのは幸福な出会いだったと思う。
どうかこの歌集が多くの人に読まれるように、祈ってやまない。

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