日めくり詩歌 短歌 吉岡太朗(2012/10/19)

たんぽぽの河原を胸にうつしとりしずかなる
夜の自室をひらく

内山晶太「たんぽぽ」『窓、その他』
(改行位置は歌集のレイアウトにならった)

「もう一度乗りたい?」
 そう、ブルーノに訊かれたとき、私はきっぱり首を横に振っていた。考えるより先に。
 もう一度乗っても、あの感覚はよみがえらないと、誰にも教えられないのに私はわかっていた。
 皆川博子『双頭のバビロン』

 まなざしたその瞬間のことを、目はおぼろげにしか記憶していない。よい歌を読んだという記憶の見出しだけははっきりとあるのだけれど、その「よい」という印象がどのように形成されたかについては、覚めた後に思い出す夢のように茫洋としている。
 「たんぽぽ」と「夜」が横並びになっていることに、その時の目は気づいていなかった。けれどそのことがもたらす影響は十分に受けていただろう。たんぽぽの黄と夜の青。ゴッホの「星月夜」を思わせるような印象的な色彩イメージ。
 「たんぽぽの河原」を、目は最初実景だと思ったのではなかったか。それが、「胸に」とくることで、記憶の情景なのだと気づく。記憶は胸にしまうものだという慣用表現に忠実な語句選択が、それを示すサインとなったのだ。けれど「たんぽぽ」をいったん実景として想像したことが「うつしとり」に身体的な印象を付与する。
目はたんぽぽを胸に押し当てるようなイメージを浮かべたに違いない。「うつしとり」は正確には「河原」にかかるが、語としての強さは色彩感覚を持つ「たんぽぽ」の方が上だ。印象の次元では、「たんぽぽ」が「うつしと」られる。花と胸には親和性があるし、押し花、黄の絵の具を塗る、イエローインクが滲む、のようなイメージもあるだろう。と同時に世界がここで切り替わることについて、目はとても敏感だ。
昼から夜へ、外界から内面への移行。あるいは外界だと思っていた場所が、内面に過ぎなかったという感覚。「夜の自室」と言うが、これでさえ作中主体の外側にあるものなのか疑わしいではないか。
 「夜の自室」は眠りにつくために「ひらく」ものだろう。けれどこの「ひらく」行為は、眠りに落ちることそのものの喩なのではないか。
 目はそんなことは思わなかった。そのように歌を解釈したりはしなかった。ただ眺めただけだ。けれど目はその解釈を予感していたのではなかったか。その解釈の手前にいたのではないだろうか。
 けれどそのように言ってみたところで、記憶が戻ってくるわけではない。その一瞬の体験はもう二度と帰らないのだ。
夢を言葉にすればするほど、夢の実感へは、遠ざかる。私の目はもうあの時の目ではない。私が歌について語るのは、今の目とあの時の目の間に隔たるものを超えようとしてのはずだけれど、実際言葉は架け橋にはならず、間に溜まる無をさらに塗りつぶすようなものでさえあるかも知れない。ならば、なぜ私は書くのだろうか? 

 
 

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