日めくり詩歌 俳句 竹岡一郎(2012/11/02)

襖一つ崖を落ちゆく時間かな   関悦史

(『六十億本の回転する曲がつた棒』/「襞」)

襖が一枚、崖を落ちてゆく。それだけの寂しい風景だ。真新しい襖か、それとも古びた襖かは、読み手の年齢によるだろう。白襖か、何か絵が描いてあるかは、読み手の欲望によるだろう。だが、どんな襖であれ、今や崖から離れ、虚しく空間を落ちてゆく。これが作者にとっての人生観なのだと、根拠もなく確信して、胸詰まる思いがする。

襖は冬の季語であるが、ここでは季語は冬という日本の四季の一つである季感を全力で拒絶し、ただ冬という感覚に表わされる厳しさ、寒さ、惨たらしさだけを担っている。襖はあえて「一つ」という、極めて即物的な数詞で数えられることによって、只の物、無用なる物と化している。実際、この情景においては、世の中で最も無用なものの一つなのだ。

本来、家の中にあって、寒さを防ぎ、部屋という空間を柔らかく仕切るべき襖は、孤独に崖を落ちてゆくとき、何も防がず、何も仕切らない。「時間かな」と置かれることにより、これはもう、この襖が地面に落ちることはないだろうと思わせる。いつまでも永遠に落ちてゆくのだ。崖の高さには限りがあり、襖に舞い上がる機能はないにもかかわらず、襖は落ち続け、落ち行きて、どこにも到達しない。

襖がもしかしたら辛うじて仕切っているかもしれぬもの、それは作者と、作者を見ている作者自身の眼であろう。襖が作者の表であるのなら、己自身を見ている作者の眼は襖の裏だ、そういう意味での仕切りである。

もう一句、挙げよう。

うすらひやさはられてゐるうらおもて   「発熱」

さわられているのは、作者であろう。何に触られているのか。永遠という、何だかよくわからないものだ。「うすらひ」という季語は何だかよくわからない感覚を表わしているのだという思いが生じたのは、藤田湘子の「うすらひは深山へかへる花の如」を読んだ時であるが、掲句の「うすらひ」には花などという優しさはない。無常の中で、なにものかにいじくられている魂があるだけである。

先に挙げた二句が収められている、作者の第一句集『六十億本の回転する曲がつた棒』は、色々物議を醸したようであるが、私は読みながら、ただ胸が詰まって仕方なかった。よく踏みとどまっている、と、はらはらしながら読んだ。

この句集は「日本景」「マルデブルクの館」「介護」「襞」「ゴルディアスの結び目」「百人斬首」「発熱」「歴史」「うるはしき日々」の九章から成っていて、それぞれの章ごとに鑑賞するのが正しい読み方かもしれぬが、この論ではあえてそれを避けようと思う。「介護」は作者を可愛がってくれた祖母の最期の日々を詠い、「うるはしき日々」では、東日本大震災の被災体験を詠っている。だから、通常、読み手はそのような連作として読む。作者の経験を脳裏において読む。だが、それは俳句にとって幸せな読まれ方ではあるまい。作者の体験を読者が念頭に置いて読まなければ鑑賞し得ない句というのは、俳句として以前に、詩として問題がある。ましてや、詩の最高峰の形式としての俳句である。俳句は、その一句が作品として独立していなければならぬと思う。もっと身も蓋もなく言うなら、「介護」や「うるはしき日々」の章において、読み手は作者の体験に感情移入したい気持ちを冷酷に切り捨てるべきなのだ。

そもそも作家とは、地獄の生まれである。秀でた作家であればあるほど、その生の始まりは地獄に享けている筈だ。そうでなければ、物を書きたいなどと思うものか。俳人にとって大事なのは、俳句が高みへ向かっているかどうか、それだけだ。なぜか。現状はとても受け入れ難いから。

そういう眼で、私はこの句集を読む。なんと頑(かたくな)な絶望に充ちていることか。

生きたしといふ願ひあり空蝉は   「ゴルディアスの結び目」
大根に窓あり我に希望あり   同
生マレテハ毀レテ肉ガ歌ヲ詠ム   「マルデブルグの館」
我が消え誰かれがきえ蠅叩   「襞」
虫踏むや「生まれ変はつたら恋人に」   「ゴルディアスの結び目」
カフカかの虫の遊びをせむといふ   「襞」
或(ア)ル螺子(ネヂ)ノ硬(カタ)クテ今日(ケフ)限(カギ)リノ命(イノチ)   「百人斬首」
多元宇宙の全て眠れぬわれ居て秋   「発熱」
生命(ゾーエー)も収容所なり月出づる   「歴史」
エロイエロイレマサバクタニと冷蔵庫に書かれ   「襞」

俳句という形式は、我という言葉を出さずに、自己を事象に仮託した方が深く自己を詠める。それはある程度の俳人なら会得していることだろう。だから、これらの句群に現われる事象は皆、作者自身であると読める。それにしても、もはや生きることなど叶わぬ物達の、なんと多く仮託されることよ。

例えば、蝉の抜け殻に、生きるも何もない。人間とは糞袋に過ぎぬ、とは禅僧のよく言うところだが、その糞さえも詰まっていない空蝉である。

大根が窓の傍に転がっていて、その窓が大根にとって何であろう。猫に小判以下ではないか。世に希望と呼ばれるものが、作者にとっては大根に対する窓のようなものなのである。もし窓が開かれていれば、大根は幽かな空気の流れを感じるだろうか。それが大根の深い昏睡に何かを付け加えるかもしれぬ。そのようなものとして希望がある、というのは、実質、希望とは絶望の中の気晴らしに過ぎぬ、と言うに等しい。

歌を詠むのは、人ではなく、肉である。生まれてから死ぬまでの間ではない、生まれてから毀れるまでの間、まるで機械のような肉が歌を詠むのだ。

やがて我という肉は消える。他の誰彼が消えるように。蠅叩きで潰される蠅のように。実際、この世界で人の死は蠅の死と何ら変わらない。

そう観じた作者は、虫を踏むときに虫の声を聴くのだ。「生まれ変わったら恋人に」と今わの際の虫に迫られて、ただ頷くより他ない作者である。今、踏む魂と踏まれる魂が等価だと認めざるを得ないから。

その上で、カフカに「俺の書いた『変身』のように、虫になって実存と遊ぼうぜ」と迫られる作者の状況は、中村苑子の「翁かの桃の遊びをせむと言ふ」と句の形は一にしながらも、はるかに切羽詰っている。

頑に、時間に、世界に、螺子のように螺旋の動きで硬く食い込んで今日を明日を生きるしかないのだが、その螺子が抜かれるとき、螺子にとっての生が容赦なく終わる。

多元宇宙という並行世界で、作者は人であり、あるいは空蝉であり蠅であり大根であり、虫だか人だか分らぬ大きな肉の塊であり、螺子であるのかもしれぬ。それら全ての我が、それぞれに眠れない。折しも、世界は秋に更けてゆく。

生きるということは収容所だ、と作者は思うのだろうか。この生が終わって次の生であっても。我という意識が、人類という種の根源的意識の一つの波であったとしても。或いは全能の神というものが在るとして、我という意識が、神という輝かしい永遠の毛氈の一つの模様であったとしても。

ゾーエー(zoe)というギリシャ語は「生」という意味であるが、個別の生命ではなく、種として存続する生命を指すという。対して、ビオス(bios)とは、個々の生命のことである。聖書中に使われる場合は、更に意味が深化し、ゾーエーは永遠の命、神と合一する生、という意味合いが加わる。プシュケー(psyche)は、人格的な生、個人の生である。

作者がここで「生命」に振るルビに、ビオスもプシュケーも用いず、ゾーエーを用いたのは、人類という種が、そして神と合一するという永遠が、収容所だと言っているのである。人類という種にも神にも、もはや期待できないどころか、静かな月の光の下で、苦痛でしかない。

アントナン・アルトーは「神の裁きと訣別するため」という本を書いた。作者は「エロイエロイレマサバクタニ」(神よ、なぜ私を見捨てたのですか)と十字架上のキリストの台詞を冷蔵庫に見出すのである。それは作者が書いたのだ。冷蔵庫にそんなことを記す者など他にいない。自宅の冷蔵庫だろう。作者の命をつなぐ食い物が入っている冷蔵庫である。だが、キリストの台詞を書くことによって、あたかも荒野に捨てられた冷蔵庫のように思えてくる。ならば,作者の自宅は荒野だ。荒野に立って、「捨てられた冷蔵庫」という自己と対峙しているのだ。そして、聖書の荒野には、いつか預言者の声が響く筈だ。

死にきらぬゴキブリが聴くクセナキス   「襞」

クセナキスという作曲家の音楽は、80年代に東京で聴いた。大戦中、反ナチのレジスタンスに加わり、戦後は故国ギリシャの独裁に抵抗した彼は、図形と数学を使って楽譜を書いた。例えば、板の上にグラフを書いて、それを楽譜に置き換えた。80年代当時、レコードを買ったことがある。繰り返し聴く内に耐えられなくなり、すぐに売った。

家族をユダヤ人収容所で殺されたパウル・ツェランの詩、大戦が始まる前に精神病院に収監され11年後に退院したアントナン・アルトーの演劇や映画、ヒトラー・ユーゲントに加入しドイツ空軍兵士として戦ったヨーゼフ・ボイスの野兎の死骸を使ったパフォーマンス。様々に大戦を体験し、だが、大戦後の声高な正義や自由主義とは一線を置いていた芸術家達が、なぜ80年代にいきなり取り上げられ出したのか。

バブルの真っ盛り、東京の西武百貨店系列の本屋や美術館に、彼らの作品は、まるで流行りもののようにお洒落に置かれていた。バブルが弾け、西武が急速に力を失ってゆき、だが、一旦世に広められた彼らの作品はしぶとく命脈を保っている。あの頃、彼らの作品が、ブランド品やディスコ「マハラジャ」のお立ち台と並行して取り上げられていたのは、世の中が豊かだったので、人類の中の異類を物珍しがる余裕があったのか。やがて来るべき崩壊を都市の住民はどこかで予感していて、その予感を祀るように異類である彼らの作品を並べたのか。当時、バブルの隆盛に何も縁がなかった若い異類達にとって、彼らの作品は救いだった。

死兎抱きをるボイスの写真読初に   「歴史」
流れゆくツェランの靴の黒ゆたけし   「襞」
夢に舞ふケチャ無音なりアルトー忌   「歴史」

ボイス、ツェラン、アルトー、それぞれ独自の方法で絶対者と対峙した彼等は、作者にとって親近感のある者達であろう。おそらく、作者は神という無限にして不条理な想定に我慢ならないのだ。そして、そのような想定においてしかこの世界は動いていないという事実をも認めざるを得ないのだ。

ゲーデル餓死カントール狂死冬銀河   「歴史」

「連続体仮説」という数学の集合論に関する命題がある。「加算濃度と連続体濃度の間には他の濃度が存在しない」という仮説だそうだが、数学が常に赤点だった私には、さっぱりわからない。

無限の個数を何らかの形で把握し特定しようとする命題であり、19世紀に数学者カントールが提唱し、20世紀に数学者ゲーデルが否定しようとして果たせなかった事、カントールは精神病院で死去し、ゲーデルもまた精神を病み、入院中に絶食して死んだ事、現在では「連続体仮説は証明も反証も出来ない命題である」という決着がついている事、これだけを知って、掲句は、神を測定しようとして果たせなかった者達を悼み、無限に対する人間の理性の限界を歯噛みしているのだと読んでみる。

無数の冷たい星の無限の集合体である冬銀河は、ゲーデルの死にもカントールの死にも、無論、作者の歯噛みにも全く関心がない。

作者は神や涅槃、永遠という概念に怒りを持っているのだろうか。いや、そういう概念に対してでは無くして、そういう概念に安住しようとする者達、もっと言うなら、共同社会における己が利益のために、神信心を行なう者達に対して。

偽造物主(デミウルゴス)の闇鍋跡か曼荼羅も   「ゴルディアスの結び目」

デミウルゴスとはプラトンの「テイマィオス」に記される物質世界の創造者であり、ギリシャ語で「職人・工匠」の意。イデアー界(万物の本質が存在する、理想世界)を模倣して、この世界を作ったといわれるが、これがキリスト教の異端とも密教とも呼べるグノーシス派の教義に転用されると、デミウルゴスとは偽の神、下級神の意となる。旧約聖書において残忍なる裁きを下す絶対神ヤハウェは、グノーシス派によれば、実は「ヤルダバオート」なる固有名を持つ下級神である。簡単に言えば、下級神がイデアー界を下手に模倣してこの現実世界を作ったので、この世界はかくも悲惨さに充ちているのだという思想である。

そして、作者は密教における曼荼羅も架空の仏を連ねただけの、偽造物主の食い散らかした闇鍋の跡のようなものであると言いたいのだろう。曼荼羅における諸仏諸菩薩は、実はみな仏法の変化であり、仏法の無限に等しい多面性を、様々な力の化身として便宜的に表しているのであるが、この句ではむしろ、ただ御マンダラを有難がるような、隷属に近い信心を批判しているのだと読める。

確かに、類型化され一般化された求道など、どの宗教であれ、どこへ至ることも出来ぬだろう。そして、もう一つ述べておきたいのは、この世に宗教でないものなど存在しない。それが資本主義であれ、共産主義であれ、アナーキズムであれ、科学万能主義であれ、共同社会における良識と規範であれ、全て宗教である。そして、あらゆる宗教は、それが広まれば広まるほど、類型化され、一般化され、誰もが安易に参入し、安易に幻想に安住し、そして安易であり類型的であり一般的であるとは、実は誰にとっても真の救いにならず、誰をも何処へも導かないということなのだ。なぜなら、人間は一人一人、認識が違うから。みんなと、あるいはたった二人でさえ、手をつないで対峙できるような、そんな都合の良い永劫など存在しないから。この惨たらしい世界にたった一人で、深き淵より血を吐いて求めないのならば、神は、あるいは仏は、その影さえも見せない。

(仏陀はその初期の説法において、「私はなにものも信仰しない」と説き、後の説法において「仏道を信じよ」と説いた。この二つは矛盾しない。管見だが、仏道とは何かを一方通行で信仰する行為ではなく、業(カルマン)《潜在的形成力。生物、無生物、心を持つもの、心を持たぬものを問わず、あらゆる事物の内に潜み、その事物の運命を形成する力》を打ち砕く技法だと思うのだ。神々でさえも業(カルマン)を持つのであれば、業(カルマン)を粉砕した仏陀がなにものも信仰しないのは当然である。「仏道を信じよ」とは、その技法の効果を確信して鍛錬せよ、という意味であって、信じれば御利益が、信じなければ罰が当たるという意味ではないと思う。)

造物主をミキサーにかけすりおろす   「発熱」

禅宗では、「殺仏殺祖」という。これもまた、安易に使われることの多い便利な言葉だが、本来は、世界を滅ぼしその業を一身に背負いつつ世界を再創造するほどの気概があって、初めておずおずと口に出しても良いかどうかという言葉である。だが、ここでは、デミウルゴスに我慢できない作者の憤りを示しているのだろう。

どこの莫迦が人など造つた へい、あッしが   「発熱」

ここで「へい、あッしが」と、ふざけて答えるのは、誰か。「どこの莫迦が人など造った」と叱責するのが作者なら、答えるのは下級神である偽造物主(デミウルゴス)だろう。もしこの惨たらしい世界で喘ぐ、たった一人の誰かが問うならば、答えるのはデミウルゴスになり替わった作者自身である。そして答えるのが作者であると読めば、この世界に歯噛みする作者は、デミウルゴスの責任を背負う意志があると認められるのだ。

春雷いま天使のごとし人らを撃ち   「襞」
天使とも蛆ともつかぬものきたる   同

一句目は、天使の行為の容赦なさを春雷に仮託して、二句目は人間が精神的な死に直面した時に現われる天使の形状を、素直に詠っている。ここに挙げられる天使は、旧約聖書に語られるところの、その形状もその行為もグロテスクに輝く天使たちだ。神の伝令者である彼らは、神の意志しか重んじておらず、その神の意図の結果、人間がどうなろうが知ったことではない。

旧約聖書の神は、己をひたすらに崇める一民族のことしか考慮せず、その民族の一員であっても歯向かう者には容赦ない。砂漠の神とはかくの如きものかと、八百万の神の国の私はいぶかしく思う。日本ではこのような有様の神を形容する簡潔な言葉がある。「禍(まが)つ神」、後世においては「祟り神」である。

だから、作者がグノーシス派のように、旧約聖書の神は往々にして「ヤルダバオート」なるデミウルゴスではないかと疑うのも、日本人として良く分かる。その砂漠の神、モーセをしてひたすらな戦争を続けさせた神が、この二千年の間に全世界の神と認められてしまったのならば、どんな教義を後からくっつけようが、その神の本来の性向である排他性、差別性、偏狭性はそのまま全世界の性向となる筈である。

軍事衛星となつて民家を焚く火視る   「歴史」

軍事衛星とは、即ち、現代の神の眼である。デミウルゴスの、地上の何もかもを見通す眼である。ここで「焼く」ではなく、「焚く」という言葉が選ばれているのは、作者の皮肉である。デミウルゴスの眼にとって、たかだか数人、数十人、数百人、数千人の暮らす民家やその集合体である村または町が焼かれる光景など、小さな焚火に過ぎぬ。この句の少し後に、

隣家既に火炎放射器来し初夢   「歴史」

という句が置かれている。作者は軍事衛星の冷淡な眼となると同時に、はるか上空からは塵にしか見えない住民の、焼かれる恐怖に寄り添おうとするのである。

多くの死苦の引掻傷(エクリチュール)のある夏天   「襞」

エクリチュールとは、フランス語で「文字、書かれたもの、書き方、書法」を意味する。掲句で言う「エクリチュール」は、簡単に言えば、作家の、存在(神と言っても良い)に対する接し方のようなものだと思う。

プラトンの「パイドロス」にあるパロール(話し言葉)に対するエクリチュール(書き言葉)について。「書き言葉とは、人の記憶を保つと同時に人の記憶しようとする意志を奪う。」

日常の営みから逸脱した「無為」として文学を捉えたモーリス・ブランショは、書くその場において、書かれたものにおいて、書き手は不在になる、と言う。

ジャック・デリダの「脱構築」という思想では、あるテキストがある事柄を伝える内容として読めるとき、それとは矛盾する逆説的内容がテキスト中に含まれる、と言い、脱構築とは、すでにあるものを解体してその中から有用な要素を選び直し再構築する、更に解体し、再構築を続けることであり、同時に、無意識の領域にある矛盾を暴き出す、という。

と、これだけのことを連ねて、これは日本においては、俳句が延々とやってきたことだろう、と思う。矛盾し対立し浸食し合う言葉を五七五のリズムに収めて提示する技法、歳時記という幾らでも膨大な量になりうる解釈書、そして豊かな四季が人々に受け入れやすくさせる無常という概念。それは選も鑑賞も無常であり、絶えず移り変わり、増殖しては無に帰し、再び繁殖するということだ。俳句に匹敵しうる技法を持つ詩はフランス象徴詩だけだ、と言う意見がある。全くその通りで、しかも俳句は世界最短の言葉で、それをやってのける。

とはいえ、それだけの卓絶した技法を多くの俳人が「宝の持ち腐れ」にしてきたこともまた事実なのである。「俳句は短い詩なので、言えることが限られている。俳人は己の分を知るべきだ」という意見さえもある。それは怯懦だ。万巻の書を連ねても言語では表わし得ぬ存在を(例えば、仏法には「言説不可得」という言葉がある。仏法は言葉では捉えられぬ、という意味である。言葉は必然的に二元対立を伴い、仏法は二元対立という「人間の思考」を超えるからだ)、五七五という、詩にとっては特攻に等しい短さによって捉えようとする行為が、言語というものへの絶望と、その絶望を超える覚悟を伴わないのであるなら、どこに俳句形式の存在意義があろう。己が分をはみ出し、己が身の程を遙かに超えてナンボ、というのが、俳人の覚悟である。

夏の容赦なく燃え上がる天に、おそらくは微かにしか付けえない引掻傷。しかも死苦の引掻傷、勿論、天にとっては何の意味も持たないであろう人間の死苦。その「引掻傷」に「エクリチュール」とルビを振るとき、その引掻傷は、偽造物主(デミウルゴス)に対して、己が書き方を持つ、運命に対して己が書き方で対峙する詩人達の爪痕なのだ。

掲句の前に「WTCビル崩壊」と前書きのある「かの《至高》見てゐしときの虫の声」という句が置かれているので、このエクリチュールの句も、9.11テロ直後の、ニューヨークの惨たらしく晴れ渡った空を思ってしまうのである。

キリスト教文明と神に対し、勝ち目のない戦いを仕掛けたアルトーの言葉を思う。

「正真正銘の健康に導くための熱に苦しめられている肉体のように、はげしく痙攣し、いたるところ物狂おしい傷を負った風景。」(アルトー『ヴァン・ゴッホ』粟津則雄訳)

「神々は創造に近ければ近いほど、怖ろしい姿、それに内在する原理にふさわしい姿をしている。」(アルトー『ヘリオガバルスまたは戴冠せるアナーキスト』多田智満子訳)

昔、平凡社の雑誌「太陽」の「お化けと幽霊」という特集を繰り返し読んだ。当時、子供だった私は、その号を宝物のように大切にしていた。今なお、その雑誌はボロボロになって、本棚にしまわれている。引っ張り出してみると、1975年8月号である。粕三平(かすさんぺい)という評論家が「幽霊絵の世界」という小論を寄せている。

「一般的にいって、ひとがあつまり、ひとつの社会をつくっている世のなかでは、いつでもある数は他の数をしめだしていく。一千万人が百万人をしめだす。百万人が一万人を追いだす。一万人が百人を仲間はずれにして、その百人が十人を追いたてる。十人が一人をはじきだす。そしていくえにもいりまじり、はりめぐらされてしめだされてしまったただひとりの被疎外者が、突然すさまじい大魔王(あるいは神)となりはて、自分を追いだしたすべてのものにおそるべき指弾をくだしていくという絶対者の構図は、わたしたちのくににはほとんどうまれたためしがなかった。」

この文を何度も読んで、その度に憤りを感じていた、当時の自分を思い出す。憤りを感じたのは、筆者の文章に対してではない。筆者の指摘した事実を、確かにそうであると肯定したからだった。なぜ唯一人の大魔王にならないのか。少年の私は、それこそが「正義」の体現であり、それ以外の「正義」など茶番に過ぎぬように思っていた。「団結」だの「連帯」だのいう言葉が茶番であったと、子供の目にさえ明らかになった頃だ。

デミウルゴスに対抗し、デミウルゴスを滅ぼすためには、自らが、たった一人で、デミウルゴスになる他はない、あるいはもっと強大な神に。作者もそう思うだろうか。そこまでは思わないだろうか。次のような句がある。

遠ツ祖(オヤ)ハ牛ノ頭ヲモツトモイフ   「マルデブルクの館」
兄病ンデ無聊ニ神トナルコトモ   同
燭臺持チ女装ノ兄ノ時化ノ入水   同

「牛頭の出てまた入る菊の家」という句が、安井浩司の句集「霊果」に収録されていて、私は読んだとき、最初、ミノタウロスのことかと思ったのである。それならば、この家は迷宮なのかと。その内に、牛頭(ごず)と呼ばれる地獄の獄卒を思い、更に牛頭の元々の起源である牛頭天王(ごずてんのう)を思った。

牛頭天王はその起源のはっきりしない神で、インドの祇園精舎の守護神であるとも、また疫病神であるともいわれる。本地垂迹説では、その本地は薬師如来であるとも、スサノオノミコトともいわれる。そして、牛頭をスサノオと解釈すると、安井浩司の句は俄然おもしろくなってくる。菊は皇室の象徴であり、菊の家とは日本国であると読めるからだ。

(スサノオは冥界の神であり海の神であり戦いの神であるほかに、隠された神という一面を持つように思われる。天照大神の弟という位置付けが今では一般であるが、それならば太陽神としての側面がある筈だ。実は、日売子(ヒルコ)、日売女(ヒルメ)という夫婦の太陽神の存在がある。この日売子、日売女が、それぞれスサノオ、アマテラスに対応し、更に蛭子という隠された神がスサノオを指すのであれば。隠岐の磯良信仰なども思い出される。)

さて、作者の掲句であるが、牛の頭を持つ祖先を牛頭(ごず)と解釈し、更に牛頭天王と解釈し、更にスサノオと解釈して、血の奥深く荒ぶる魂、荒魂(あらみたま)と読むなら、二句目の、病んで無聊に神となる兄は、偽造物主(デミウルゴス)に我慢できず、自ら神になろうとする作者の「自己像幻視(ドッペルゲンガー)」である。三句目の、女装する兄に、アルトーの「ヘリオガバルスまたは戴冠せるアナーキスト」を想起しても良い。ヘリオガバルスは女装を好んだからだ。ローマの暗君にして狂王ヘリオガバルスが神を超えようとして、自ら最悪の偽造物主と成り果てたことを考えるなら、この三句目は偽造物主となることへの絶望(たとえ成れたとしても偽造物主は偽造物主でしかないということへの絶望)であろう。

しかし、実は作者は、解答(あるいは融和)に至る道を、直感的に知っているのではないかと思われる節もある。次の二句が句集に存在するからだ。

フラクタルとは無数に如来蘖ゆる   「ゴルディアスの結び目」
春の風受肉は灰を嘗めながら   「発熱」

フラクタルとは、例えばリアス式海岸線の形や樹木の枝分かれの形状である。微視的に見ても巨視的に見てもその複雑さが尽きない。これに対して、一般的図形は、拡大するに従い、細部の変化が少なくなりなめらかとなってゆく。血管や、腸の内壁もフラクタルな構造であるし、ウミウシの襞やサンゴの広がりなどもフラクタルである。

このフラクタルという無限の複雑さを「無数に如来蘖ゆる」と喩えたのは、生物はもとよりその生物を形作る細胞にも、また無生物にも、あるいは銀河の有様にも、階層を成しているかにも観じられる次元、同時に、重複しまた並行するかにも観じられる次元にも、全て「如来は遍満する」、しかもミクロの視点からマクロの視点に至るまで無数の如来が独自に常住し、結びつき、常に新たにひこばえると言っているに等しい。「流住不可得」という言葉も思い出す。

受肉とは、キリストという神の言葉が、歴史的人間性を取ったこと、とされるが、私は藉身(身を藉りる)という訳の方がしっくりくる。「灰を嘗めながら」という言葉は、季語でもある「灰の水曜日」を思い起こさせる。信者は司祭より、灰を頭または顔に受け、この日から復活祭まで40日の断食が始まる。灰はやがて塵となる儚さを表わすが、同時に、灰が古代、石鹸の代用であったことから、灰は浄化、再生をも表わす。

掲句で「受肉は灰を嘗めながら」というのは、キリストが信者の行為を「真似ぶ」ことにより、キリスト自身が信者をキリストの高みに引き上げる、そしてその「真似ぶ」行為無しにキリストは受肉しない、とさえ取れるのである。

だから、おそらく、作者は理屈としては分っているのだ。だが、分っていることと、分っていながらどうにもならない業(カルマン)を何とかすることとは、全く別の問題だ。だから、

またの世はアルゴンたらむ磯遊び   「襞」
  アルゴンは大気中最多の希ガス、他の元素との化合はほぼ無し

などと言っている場合ではない。あらゆる命の源である海の際に遊びながら、もうどんな物質とも関わりたくない、と切に願う気持ちは胸に迫るのだが。

さて、私が延々と論じてきたのは、作者と偽造物主(デミウルゴス)との対立である。ただ生きて楽しむだけなら、神と称される支配者などどうでも良い。だが、人がこの悲惨な世界をつぶさに観察し、世界のために涙するなら、そうは行かぬ。作者は実にこの世界を愛しているのだ。

女子五人根性焼きの手に氷菓   「日本景」
ホーロー看板灼けゐて由美かおるが素足   同
女陰(ほと)大書されて中学芋嵐   同
『エロトピア』『東スポ』の散る枯野かな   同
ウルトラセブンの闇の高島平かな   「襞」
死にしAV女優の乳房波打つや   同

根性焼きとは、上品な方々は分らぬかもしれぬので解説しておくと、タバコの火を肌に押し付けて、痛みに耐える根性を誇る風習である。ヤンキーという言葉が出る前から、広く不良の間では伝統であった。五人の不良娘がアイスキャンデーを舐めているのである。行き場もなく、ただつるんでいるのだ。タバコの火のさぞ熱かっただろう手に氷菓を握らせているのは、作者の優しさである。

「かとり線香 アース渦巻」のホーロー看板は、子供の頃、あちこちで見かけた。真っ白なワンピースを着た由美かおるが長い脚を見せて座っている。今も田舎の方に行けば、置き捨てられたような民家の壁にあるかも知れない。何十年もの風雨に晒されて、くすんだ由美かおるは、やっぱり女神のように輝かしく笑っている。

東京都のマークに似た女陰の落書きは、学校の石塀や体育館の裏の壁に、やけくそのように記されていた。校内暴力という言葉が流行り出したのは、私が中学の頃だったと思う。教室の窓はしょっちゅう叩き割られたものだ。窓硝子は物を使って割るより、素手で割る方が讃嘆された。痛がることは軽蔑の対象だったから。いつも誰かの拳が血にまみれていた。死ぬよりも喧嘩に負けることの方が恐ろしかったのは、根性無しと見なされるのが最大の侮辱だったからだ。暴力は芋嵐のように吹き荒れていたが、今考えると何のことはない、新左翼の負の遺産を我々の世代がご丁寧に、より純化した形で引き継いだようなものだ。

その頃、手軽に手に入るエロ本といえば、漫画本の「エロトピア」だった。鉄条網で囲まれ、土管の積んである空地に、よく捨てられているのを、皆は拾って読んだ。

「ウルトラセブン」に、宇宙人に団地が乗っ取られる話があったように思う。高島平の広大な団地群に、70年代当時、飛び降り自殺の名所と噂される棟があった。一棟を指す記号は、いつもくるくると変わり、時にはその棟数を増やして伝えられた。団地に暮らす人々だけでも2万人を超える高島平の、その果てしなく林立する棟の、どれが闇に憑かれているのか特定できる筈もなく、噂だけが神話のように語り継がれていた。高度成長期に憧れの住居だった巨大団地に、自死の噂が寄り添っていたのは、人々の意識が光と闇の釣り合いを求めたのか。あれから40年経ち、低迷する経済の中で、かの地に自殺の噂は聞かない。ウルトラマンとは違い、ウルトラセブンは孤児という設定だった。セブン系の一族が滅ぼされ、たった一人生き残ったウルトラセブンは、自分とは異種族のウルトラの父に育てられたのだ。だから、この句は、ウルトラマンではいけない。ウルトラセブンでなくてはならない。冥界が八岐大蛇のように口を開けていた高島平へ向かうのは、孤独な流離の神でなくてはならない。ウルトラシリーズというテレビ番組は、昭和40年代の少年向け古事記だった。

日活ポルノに代わりアダルトビデオというものが広まり始めた。当時の女優は信じられないほど可愛らしく、自殺したり殺されたりすると赤新聞にセミヌードの写真が載った。死して尚、彼女らのビデオは貸しビデオ屋に並べられ、現実にはとうに灰と化している乳房はビデオを再生する度に飽きもせず同じ揺れ方を繰り返したのだ。

この愚かしく愛おしい世界を懐古して、地獄には地獄の陽だまりがあると思う。恐らく、作者もそう思っているだろう。我々は生きながら死んでいるのか。せめて人に優しく死にたいものだが。ゾンビ映画が流行りだしたのは、ちょうどバブルの頃だった。新左翼が敗北し、暴走族が解散し、バブルが弾け、失われた十年の終りにテロの時代が始まり、そして世界各地で大地震が始まった。

生きてゐる春日の吾も遺骨かな   「歴史」
春睡や触れば物のわが遺骨   同
大腿骨もてごきぶりを打つわが遺骨   同
白菊をばくばく食ふやわが遺骨   同
焼藷とともに焼けをるわが遺骨   同
祖母の口に鮪を運ぶわが遺骨   同

この「遺骨」シリーズは、傑作で、おかしくて、やがて悲しくて仕方ない。生きていると思っているが、実はすでに遺骨なので、我々はこんなに寂しいのか。それでも、一生懸命、祖母孝行はする作者なのである。

祖母やいま帰心の秋蝉となりもがく   「介護」
俺のうしろの秋麗を指し誰といふ   同
世話しぬけば枯木がア・リ・ガ・タ・ウと言ふ   同

秋蝉に喩えられる祖母が奇妙に美しいのは、「帰心の」という形容が入っているからだと思う。どこへの帰心なのか、遙かな海のような天のようなところへか、山は緑に川は澄み渡る記憶の故郷へか。

二句目、三句目は、介護という前提無しに読むと、神秘に触れている観がある。「俺」の他に世界に存在するのは、秋麗と作者が呼ぶなにものかと、その秋麗を誰かと問う、誰でもなく誰でもあるなにものかである。

人ではなく、実際に枯木の世話をし抜いていると取っても良いのである。枯木に水をやり、話しかけ、果てしなくそれを続けた果てに、突然、枯木の礼を聴く。タルコフスキーの映画「サクリファイス」のラストは、枯木に水を運ぶ少年の景だ。枯木はいつか花を咲かせると父が言った、その言葉を信じて少年は水をやり続けるのだ。

年暮れてわが子のごとく祖母逝かしむ   「介護」

この一句のために、「介護」という章があるといっても良いが、「介護」という前書きなくとも、この句は充分に美しい。しずかに聳えている句だ。上五の季語が、万感を湛えている。こういう句に対しては、解説する必要がない。良く看取った、と称えるだけである。

作者が、いわゆる「普通の」俳句が作れないわけではない。例えば、次のような句群など、見事なものだと思う。

女の肌みな夜祭を得て光る   「日本景」
夏嶺分けて何も通らぬ道路美(は)し   同
夜店の裏の秋迫りゐる発電機   同
白川村みな岩魚らの夢の中   「襞」
荒るる湖に秋の蚊打てば血の光   同
しづかなる白虹の原ばつた満つ   「発熱」
だるく白く梅雨の奥なる雀の声   「うるはしき日々」
恋人が待つ神留守の雲の下   「襞」

一句目は、艶やかな祭の風景だ。女たちの解放感が生き生きと描かれる。

二句目は、ここではないどこかへ、という詩人の生理をそのまま絵にしたようだ。詩人の行く手には常に遙かな高いものがそびえている筈だから。

三句目は、夜店の裏に寂しく黒く働いている発電機に秋の寒さを見たのだ。「迫りゐる」は秋にかかっているのだが、情感としては発電機の黒々とした唸りにもかかってくる。

四句目は、飛騨白川村の、世界遺産ゆえに現代から隔絶した懐かしい情景を、「岩魚らの夢」と形容したのだ。清流の響きが聞こえるようではないか。

五句目は、微かに石田波郷を思わせる。人間探求派の憂愁が立ち昇る。腕にでも止まった蚊を叩いた、その血の痕を「血の光」と表現したのだが、この「光」という語に、湖の波が跳ね返す光が含まれていて、湖の荒れは作者の心を体現しているようだ。

六句目、夢のように美しい風景だ。「しづかなる」というのは、使うのが難しい形容だが、「白虹の原」の形容に使われると、実にしみじみとする。

七句目、梅雨の中、樹か軒に籠っている雀が鳴いているのだ。或いは雨の中を、それでも餌を探しているのかもしれぬ。「だるく白く」は雀の声にかかる形容だが、梅雨の降る様をも表わし、更には作者の心情をも代弁していて、結果、作者と雀の気持ちは一つになって、梅雨の風景に溶け込んでゆく印象を与える。

八句目は、なぜか胸に迫る。これは現実の恋人か、それとも前世の幻を見ているのか、そういう気持ちにさせられるのは、「神留守の雲の下」という、寂しい、そして神々から密かに猶予を与えられているような情景によるのだろう。神々が帰って来るまでの逢瀬という気もしてくるのだ。

そして、俳句としては馴染みがないかもしれぬが、詩として、麗しく着地している句群もある。

地圖延ベテ領地女陰ノ形ヲナス   「マルデブルクの館」
令孃ノ動力トシテ猫ノ放電   同
寢室ニ星屑粘ク揉ミアフヤ   同
コンビニエンスストア冬銀河の入荷   「日本景」
少女らの脂とおもふ祭かな   同
アンドロメダ忌空家の電話鳴りにけり   「襞」
    アンドロメダ忌=埴谷雄高の忌
縁ふかき処刑機械ら茂るかな   「ゴルディアスの結び目」
血氣(ケツキ)コレ光(ヒカリ)ノ喉(ノド)ヘ花散(ハナチ)リコム   「百人斬首」
永遠(エイエン)ニ名(ナ)ノ無(ナ)キ瀧(タキ)ノアリヌベシ   同
無頭の揚羽数十にゆるく滑空され   「発熱」
鮪らの首断面の照らしあひ   同

皆、読んでそのままの情景だ。大正期の陽だまりの匂いがする。江戸川乱歩や稲垣足穂、澁澤龍彦や中井英夫を思い出す。こういう情景は、あるいは異界と呼ばれるのかもしれぬが、読んでいて安心し、一息つける。こういう情景に囲まれて暮らせるなら、こんな悦ばしいことはないのだが、そうも言っておられぬ。ここでは、それぞれの事物は各々の本質を剝き出しにしたまま、静かに眠っている。人外の息吹がやすらかに充ちている。

いわゆる「社会俳句」とは対極に位置する句群である。だが、社会俳句も、きちんとこなせる作者なのは、次の句群を見れば明らかだ、と、私は少し危惧する。

「正義」を叫ぶとき、人は必ず己の悪に目をつむる。そうしないと、声高く叫べないからだ。声を高めれば高めるほど、詩は、永遠は遠ざかる。詩は社会のために貢献すべきだ、と信じている者達は、詩を社会よりも低位においている。結果、詩と称する、ゴツゴツしたスローガンが出来るだけだ。詩は死んでしまう。ショスタコーヴィッチやタルコフスキーの、ソ連統制下における苦痛は、実にそのためであった。作者の場合は、どうだろう。

きのこ雲の切身と鯖を買つて帰る   「襞」
べつたりと血のついてゐる雲の峰   同
廊下の奥に峰雲生えかけ固まりをり   「歴史」
核の傘ふれあふ下の裸かな   「襞」
人類に空爆のある雑煮かな   同
足尾・水俣・福島に山滴れる   「うるはしき日々」

一句目、これはふてぶてしくて良い。きのこ雲は人間のみならず、他の生物にとっても明らかな「悪」、生存を脅かすものの象徴であろうから、その切身を買って、勿論、食うのだろう、その行為は天晴である。人間という種の悪を認め、その悪の最大の象徴を食らって腹を満たそうというのだから。一緒に鯖を買っていることから、もしかしたら鯖と同じくアシが早いのか、と心配する。他に食うものがなかったから、仕方なく買ったのではない。鯖の他に鰯だって鱶だって売っていたろうが、あえてキノコ雲の切身を買ったのである。

二句目は、雲の峰をキノコ雲と読んでも良いが、ここは普通に、聳え立つ雲と読みたい。その空はイラクであってもスーダンであってもボスニアであっても、無論、シベリア、カンボジア、チベット自治区であっても良い。虐殺が行われた、現に行われているあらゆる場所の空に聳える雲の峰である。それを「我は子羊の腎臓の脂肪に飽いたり」と喚く偽造物主(デミウルゴス)の顕現と見ても良いのだ。

三句目は、渡邊白泉の「戦争が廊下の奥に立つてゐた」へのオマージュだろう。その当時、白泉が見たのは帝国陸軍の黄套を着た兵士であり、その頃はまだ兵士が戦争を担ったのだ。現代の戦争を担うのは、人ではなく兵器である。この峰雲をキノコ雲と見ることも、また顔の見えない、敵なのか鏡に映った自分なのかわからない何かと見ても、あるいは先に述べた偽造物主(デミウルゴス)と見ても良いのである。

四句目は、核抑止力の下に成立する世界の寄る辺なさであろう。どんなに豪華な服をまとっていようが、また分厚い核シェルターの壁に守られていようが、核の前では遂に裸でしかない人類(という概念)。「核の傘」というのは、概念である。実景ではない。対応する「裸」もまた、概念ということになる。

五句目は、正義も悪もそれぞれの立場で混沌と絡み合った現代を雑煮に喩えたのだろうか。そうではなく、作者は雑煮を食い、テレビでは空爆の映像を流しているのであれば、これは「ひとの痛みは百年でも我慢できる」という、普遍の生理を皮肉っていることになる。何万人が餓死し、撃ち殺されようが、今までそうやって雑煮を食いステーキを食い暖かく繁栄を謳歌してきた。よその国のことだから。たとえテレビの映像が生中継であっても、間近に起こっていることではないから。それはリアルではない、概念だから。それが冷酷であると非難する資格を持つ聖者がどこにいるか。いるとすれば、その彼は人間を超えている。

六句目、公害の被害地である足尾・水俣に、福島を連ねている。一見、わかりやすい句である。作者がここでひそかに、あるいは意識下に仕掛けたとすれば、「山滴る」という、美しい悠久を思わせる季語を配備したことだ。

チェルブノイリ原発事故の10キロ圏内、被爆した森の松は、幹が真っ赤になって枯れ、「赤い森」と呼ばれた。放射能汚染があまりにひどかったので、土地は立ち入り禁止となった。十年後に制作されたドキュメンタリーでは人が立ち入れなくなったことによる、驚くほどの生物多様性を記録している。森は人間が消えた故に、放射能汚染にも拘らず、独自の豊かさを獲得したのだ。

「足尾・水俣・福島に山滴れる」この句の「に」を、どこにかかると解釈するか。足尾・水俣・福島の三つにかかると取るか。それとも、「足尾・水俣」で一旦切れが入り、「福島に山滴れる」と取るか。

「正義」超えつつ菌(きのこ)となつて増えゆくや   「ゴルディアスの結び目」
風鈴を聞きつつ人は殺しあふ   「歴史」

ユダヤ人というだけで強制収容所に入れられ、家族を皆殺しにされたツェランの詩が、なぜ呟くようなのか。

「超弩級の軍艦が溺死者の額(ひたい)にふれて砕け散らない限り、正義について語っても無駄である。」(ツェラン『逆光』飯吉光夫訳)

なぜ彼がナチ狩りに参加しなかったか。そうする権利は十二分に有った筈なのに。

詩に、参入できなくなるからだ。詩は、言語を用いて神へ迫ろうとするものだから。詩は、言葉を使えば必ず生じてしまう二元対立(ましてや「正義」という言葉を使えば、必ず「悪」という言葉は生じる)を、言葉によって超えようと試みる、希望に研がれた特攻だから。

そして、万が一にでも、その特攻が成功すれば、超弩級の軍艦が溺死者の額にふれて砕け散ることが、起こり得るかも知れない。

復讐は、生者に与えられているかも知れない。「正義」は、果たして生者に与えられているだろうか。「正義」は、常に死者の側にしかなく、生者は地雷原を歩むような細心の注意を払わなければ、死者のみが叫ぶことの出来る正義を、結果的に貪ってしまうのではないか。

ツェランの詩が強制収容所を生々しく描くのではなく、超現実的な描写、言語の分解や結合により、抽象的に、幾重にも意味が取れるように書かれているのは、一つには人間が長きに渡って極限の体験をしたときには、生き延びた後、そのような書き方しか出来ないからだ。その体験に関しては、言語も、思考も、己の内の轟音の闇に、分解されてしまうからだ。

もう一つは、記憶の公正さを自らに強く求めるから。そのために表現は超現実的に成らざるを得ない。それが結果として、書かれた詩を、社会状況から独立させる。その当時の時間の推移、その当時の一定の地域的空間から、詩は解き放たれる、皮肉にも。

社会の状況を考えるな、と言っているのではない。社会の状況をつぶさに見つつも、詩として社会状況から独立して立っていられる句を。

先に挙げた粕三平の「幽霊絵の世界」をもう一度引用してみよう。氏の論は、最も秀でた幽霊画をこんな風に定義して、終わるのである。

「ほうけてしまったかのようにみえて、どのようにも決してほうけていないさめた眼差し。しずかにじっとみつめ、ただ立ちつくすだけのすさまじい日常性。幽霊絵の真価はそこにある。」

作者の、次に挙げる句群は、大震災を念頭に置かなくとも、充分に読める。むしろ大震災に結び付けない方が、詩として豊かになり、より屹立する句群だ。

供犠となるこの地に万の寒鴉のこゑ   「うるわしき日々」
砕けし故郷は神域と見ゆ春の昼   同
墓石ら回り倒れや春彼岸   同
無人の街の鼻血止まらぬ男かな   同
青蔦を剝げばこの家崩れ落ちむ   同
人間は灰作りけり烏瓜   同

一句目、遙か昔より供犠となることが定められている地が、いつか遠い未来の祭祀に備えていると読めば、この地の峻厳さは、より増すだろう。

二句目を、大空襲の後の東京と読んでも良い、あるいは例えば、信長に女子供、百姓、神官に至るまで虐殺され焼き尽くされた、戦国の伊賀の地と読んでも良い。また、日本ではない異国の遠い昔の物語と読んでも良いのだ。

三句目、春彼岸の穏やかな陽射しの中、墓石が緩やかに回り始め、やがて人のように倒れると読めば、日常にひそかに侵食する黄泉の勢力をユーモラスに詠んだものと、詩としての鑑賞に充分耐え得るだろう。

四句目、これはネットの「2ちゃんねる」で話題になった、原発事故現場から8キロの浪江町に住み続けて現場の実況を続けている男のことだろう。鼻血が止まらない、空気が化学物質臭い匂いがする、と男はリポートし、置き去りにされて野良と化した飼い犬たちを撮影しネットに投稿する。(句集では掲句の次に、「被爆しあつて男の撮りし犬の顔」という句があるから、ほぼ、この男のことだと推測される。)その現実を念頭に置かず、カフカの小説の一場面のように思い描いても良いのだ。男は、我々と同じ街、だが違う次元の街で永劫に立っているがゆえに鼻血が止まらぬのだ、そう読めば、男の姿は普遍性を得る。

五句目、柱も壁もなく、青蔦によってその形状を保っている不思議な家を想起しても良い。あるいは青蔦を「家」という概念を支えている「血統」の暗喩と読んでも良いのだ。

六句目は、太古に火を初めて使い、灰を作ることを覚えた人類が、遠い未来に滅びたとき、色々発明したように思えるが、結局、最初から最後まで灰ばかり作っていたな、と自嘲する句と読んだ方が、その時空は広がるだろう。

私は、なぜか、ここでアルトーの言葉を引用したくなる。はっきりと理由は分らぬままに、多分、言いたいことがうまく言えないもどかしさを、何度も繰り返し読んだアルトーの言葉に託したいのだろう、と推測する。私は、アルトーのこの言葉を、作者に、いつか役立てるべく覚えていて欲しいのだ。

「ヴァン・ゴッホは正しかった。人は、無限のために生きることができるし、無限によってのみ満足することができる。この地上と諸天体には、無数の偉大な天才を満足させられるだけの無限がある。そして、ヴァン・ゴッホが、おのれの生全体を無限にさらしたいという欲求をみたしえなかったのは、社会が彼にそれを禁じていたからだ。

はっきりと、意識的に禁じていたからだ。」(アルトー『ヴァン・ゴッホ』粟津則雄訳)

俳句の「身の丈」をはみ出し、ある懐かしい異界にも安んじず、社会正義という宗教的幻影にも危うく絡め捕られずして、偽造物主(デミウルゴス)との決着のつかぬ対決を超え、言語によって生ずる二元対立を超えようとする志が(おそらくは無意識に)現われている六句(冒頭に挙げた襖の句を入れて七句)を最後に挙げたい。私の独断と偏見による選であるが、この句集のみならず、現俳壇の中でも最良に属する句群だと思わざるを得ない。

紀元前、紀元後の節目を分けた、「聖母」という婦人。

男達が掘り、女達が背負って行った、山梨は乙女鉱山の水晶のこと、その鉱山でよく取れた軍配型というハートの形をした双晶が、84度34分の角度で接合されていることから、後にその角度で接合される水晶は「日本式双晶」と呼ばれ、世界に愛されること。

夜の鳥と書く鵺(ぬえ)が、かつて京に討たれた後、その骸は舟に乗せられて淀川下流に流れ着き、大阪の都島に鵺塚があること、1980年に制定された大阪港の紋章は鵺がモチーフであること。

羽化とは、死と融解の果てであること、それは「詩」と「自由」の裏面かもしれぬこと。堕天使ルシフェルの、悪魔という一面に留まらない様々な解釈、近代に至ってはブルトンの著した「秘法十七」の末尾、墜落する天使より分かれて地上を目指す二枚の羽の名。

太陽よりも強い電磁波を出し、ギリシャ神話においては最高神ゼウスの化身とされ、バビロニアにおいても最高神マルドゥクの化身とされた木星のこと。

解釈したいことはある。だが、それらの解釈を尽くして尚、測り切れない香りのようなものが残り、その香りのようなものを獲得することが、俳句の至上の使命だとすれば。実は、俳句とは日常の神秘を測るのであり、神秘とは常に非日常であるのだ。

私ごときが、こんなに長々と論ずることなどなかったかもしれぬ。なぜなら、安井浩司という、現俳壇の最高の良心が、この句集の帯文を執筆しているではないか。(かつて安井浩司の俳論集「海辺のアポリア」を読んで、私は戦慄した。その前もその後も、あれほど俳句の至高に迫った論集を、私は読んだことがない。)

「信じるなら、己が日常から信ぜよ、否むなら、己が日常から否め」

句集の帯文に記された、安井浩司のこの激励を、作者は銘じているだろうと思う。そして、安井浩司の指す「日常」とは何か、俳句という至高の詩を掲げる孤高者は、何をもって「日常」となすべきか。公案を課されたのは作者だけではない、全俳人である。

次に六句を挙げる。香りの解説はしない、というより、出来ない。

「名指サレタ婦人ハ紀元前カラ難所デアツタ」   マルデブルクの館
蜘蛛(クモ)ノカヨフ道(ミチ)ゴト乙女(ヲトメ)結晶(ケツシャウ)セリ   百人斬首
夜(ヨル)ノ鳥(トリ)測(ハカ)ルニ大阪(オホサカ)ヨリ大(オホ)キ   同
羽化(ウクワ)シケル人(ヒト)ノハゲシク折(ヲ)レユクナリ   同
木星殊に大赤斑を泳ぐ巨人   発熱
滴りて無限にのぼりゆくならん   歴史

言葉を滴らせ、その言葉の業(カルマン)である二元対立を、言葉自身に超えさせようと試みること。無限の高みを限り無く昇れと、ただそれだけを言葉へ諭すこと。後のことは、作者から放たれ、作者を離れた作品自身が志すだろう。

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