日めくり詩歌 俳句 後藤貴子(2012/11/20)

過去にしづかな爆発をもち昼寝男   堀井春一郎

元占い師の和泉宗章は「平穏無事な一生、可もなく不可もない人生が最幸運」と言っているが、平穏無事な一生はなかなか得がたいものだ。

この句の「爆発」は、人生のビッグバンを指す。たとえ今、大口をあけて惰眠をむさぼっているとしても、長い人生のうちには、過去に何か大事件があったはずだ。恋のさや当てで傷ついたり。先の大地震のような、どうにもならない外的要因に人生が翻弄されたり。大病を患ったり。身近な人間の死に遭遇したり。仕事の場面で、大きな困難にぶつかることも多いだろう。

周囲を見渡すと、平和で幸せな生活を送っているのに、本人は変化のない日常に飽き、あるいは熱狂的に何かにのめり込んだ末、平穏な生活を放逐するタイプの人間がいるようだ。

 

作者堀井春一郎(昭和2年生~51年没)の人生には二度、大きな波が到来している。

一度目は、傾倒していた山口誓子が療養していた三重県尾鷲市で高校教師として奉職するため、東京を脱出したこと(昭和25年)。

二度目は、妻ではない女性と九州へ出奔したこと(昭和33年)。

いずれも、ある人間へ没入するあまり、自ら選択した荒波だった。

堀井はその体験を題材として、『教師』(昭和33年 琅玕洞)、『修羅』(昭和34年 大雅洞)という二句集を編んでいるが、彼は本質的に「一人称の作家」であると筆者は見る。堀井にとって魂を揺さぶる大事件は、句作の原動力だったのだ。俳句について彼は「本質的に他人の俳句をぼくは一切拒絶する。一切を拒絶しなければ進んで自ら書き手になる必要はない筈だ」(注1)とまで述べている。彼は俳句で「自分」を描きたかったのだ。

第一句集『教師』より。

地の果てに誓子狂あり蟹とゐて
醒めてさむし酔えば教師を辞めむとも
教師よ冷えし飯噛むも惰性にて
きりぎりす教師の生を磨滅して
教員室寒し紫煙に紫煙からみ

現在、教務室で喫煙が許可されているところはないはずだが、一昔前は愛煙者が多く、つねに紫煙が漂っていた。この句の紫煙は私怨に通じる。教務室は、表面上は平和でも、人間の感情が静かにぶつかり合う場なのである。これら教師生活の句は、いずれも底冷えがする。

楠本憲吉は本句集に対し「作品の悉くが暗愁のエピグラム」(注2)と述べている。この卓見は堀井の全句業に通じ、深く納得するのだが、筆者にとって、堀井の教師生活を題材とした作品群は、単なる仕事上の愚痴のように感じてしまう。世の中に「教師」と呼ばれる存在はあまたいるが、教師の感情や生活が、必ずしも一般性・普遍性を持つとは思わない。個人的に、「酔えば教師を辞めむとも」等の堀井の繰り言は、あまりに自分自身の気持ちと近すぎ、読んでいて嫌気がさしてくることがある。

第二句集『修羅』より。

七日抱きつづけ未明の寒雀
春泥を妻は堕胎しに吾は教へに
三十の汗もて女無惨にす
天涯や女に陰の毛を与へ
女陰の中に男ほろびて入りゆけり

「ほろびて」の一語に、男性器が萎える現象だけでなく、いくら交わっても満たされない空虚なこころ、周囲の冷たい処遇、二人の今後の不穏な運命までが暗示され、見事である。身の破滅を感じながらも、女の体にのめり込んでいく男の、切なる性。現在よりも婚外セックスに禁忌がまとわりついていた昭和30年代の空気感までが表されており、間違いなく堀井の生涯の代表作の一つと思う。

本句集について堀井自身自虐的に「私の劣性形質の集積」と書いていたり(注3)俳壇で「情痴俳句」と評され、毀誉褒貶あったりと、評価はさまざまだが、筆者は男女の情愛を赤裸々に題材とした点に、文学の主題としての一般性・普遍性を感じる。読者が作品に感情移入しやすいからだ。別れ際に相手に自分の陰毛を与えるなど、ナルシスティックではあるが、禁じられた恋に溺れた男女は己に酔っており、えてしてこんなものかも知れない。

しかし、掲句もそうだが、堀井の句で最も魅力的なのは、境涯性の薄い作品だろう。

野に赫らむ冬雲誰の晩年ぞ   『教師』
石をパンに変へむ枯野の鍬火花   『修羅』
まぼろしの鶴は乳房を垂れて飛ぶ
女と落葉踏みゆくここで笑わねば   『曳白』所収「離騒」抄
紅梅や地下に犇めくされこうべ
山百合や母には薄暮父に夜

塚本邦雄は、「噤んだ口に谺する餘響こそ俳諧の味といふものであらう。その味を醸すことにかけて春一郎はほとんど奸智に近い手練を見せる」と述べている。(注4)

余響。この言葉は堀井の作品のキーワードではないか。夕日の差す枯れ野に、自らの人生を振り返る老人の重い感慨。日々の糧を得る農作業を、まるで聖書の一部のように描き出す美しい筆致。女性と歩みを進める場面で、無理矢理笑顔を作り出す男性の姿ににじむ深い物語性。

自らを語る堀井の口調は必死であり、よい意味での余裕がない。しかし、少し離れた位置から、彼が言葉で対象をとらえるとき、そこに余響が生じる。それらは、ことば本来の力を感じさせる、実に魅力溢れる作品である。

(注1)『曳白』 深夜叢書社 堀井春一郎

(注2)『教師』解説 楠本憲吉

(注3)『修羅』後記 堀井春一郎

(注4)『百句燦燦』 講談社 塚本邦雄

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