鉄棒を子として来たるてのひらに沁みてせつなし鉄のにほひは 杜澤光一郎
『黙唱』(1976年 角川書店)より。(参照しているのは『青銅時代』(短歌新聞社)に収められた『黙唱』抄である)
この歌集を刊行したとき、杜澤は40歳。父親として、夫として順調な歩みを見せるころの年齢であると思われるのに、この歌集に孤独な影がつきまとう。
掲出歌はわが子と鉄棒をしてきた後の気付きを歌にしたものであろう。握っていた手のひらに鉄のにおいが染みついているのに気づく作者。当然、鉄棒の遊びからは大人は遠ざかっているから、自分が鉄棒をしていた頃には気づかなかったにおいである。さらに深く思考していくと、鉄のにおいは血のにおいにも通じる。鉄のにおい、血のにおい、わが子。そして、血脈の流れの中にある自分。そのような視点で読み直して見ると、鋼をモティーフに選んだ歌が多いことに気づく。
さし覗く葦叢のなか一条の帯鋼に似て冬の川光る
騒然と春は尽きゆく樟若葉あかがねいろに点にあふれて
木枯しに吹かれて
拾ひきて夜の灯に目守る秋蟬のあかがねいろのぬけがらひとつ
冬ざれの西日の中に犇めき立ち竹は鋼管のかがやきをもつ
あるいはこのような歌が入れ替わり現れる。根底に描かれるのは強靱な生命力であり、また、その強靱さと背中合わせにある離人的な、狷介な要素である。杜澤の歌には自らの性質を父親ゆずりの狷介として描く歌も多々あって、いつも離れがたい(杜澤の家は由緒ある寺院であった)血脈の中に自らがあることを強く意識している。一方でそのような血脈を疎みながら、一方でルーツとして自負をも持つ。そのアンビバレンツへの葛藤が、杜澤の歌をより深く、魅力的なものにしているといえるだろう。