日めくり詩歌 短歌 吉岡太朗(2012/11/27)

はじめから美しいのだこの手からこぼれていったポップコーンも

五島諭「サウンドトラック」

 ポップコーンに対し、手は絶対的なフィルターだった。
 その指のひとふれが他のありとあらゆる可能性を捨象し、それを食物へと変換する。「袋→手→口」のプロセスは、通過儀礼における「分離期→移行期→統合期」に対応する。その予定だった。
 しかし儀礼は途中で妨げられる。「袋→手→床」という通過はポップコーンを、「食すもの」から「見るもの」へと変容させる。「袋→手→床←まなざし」である。そしてそれは美しいものとして私に認識される。
 ところでこの美しさは、ポップコーンに由来するものだろうか。それともまなざしに由来するものなのだろうか。
「○○が美しい」という私たちの言葉の使用法を考えてみれば、私たちは対象に美が宿り、それをまなざすのだという認識を持っていることは確実だろう。
 美を感じた瞬間に何が起こっているのかは別として、事後的にその体験は、「対象∋美←まなざし」という図式に整頓される。
 そのような認識の枠組みがある以上、美とは常に、他者のものなのである。
 ポップコーンは予定調和を脱し、「袋→手→床」という経路を通って、私から離れた一個の他者となった。食物という記号を脱し、ゴミという記号にもまだ移行する前の、剥きだしの存在。
 美しいとはそういうことなのではないだろうか。どんな記号でもなく、「他者=存在」がそのままそこにあるということ。
 はじめから「美しかった」、ではない。
はじめから「美しい」、なのである。
 ポップコーン「が」、ではない。
 ポップコーン「も」、なのである。
 存在は美しく、すべての存在は存在である。従ってすべては美しい。
 ここにあるのは発見である。
 第一の発見は「ポップコーンは美しい」であり、第二の発見は「存在は美しい=すべては美しい」である。
 後者の発見は抽象的・観念的なものだが、しかし実感と乖離した観念ではあるまい。「はじめから美しいのだ」と思う現に今この状態の私においては、すべてのものが美しく見えていることは間違いないだろう。
 ポップコーンの美しさを通して、私はそんなまなざしを手に入れたのだ。
 そう考えると今度は美しさがまなざしの方に由来していることになる。

美しさは、対象に由来するものなのか、それともまなざしに由来するものか。敢えてこの問いに固執してみるなら、これまでの議論の流れからは、たとえば次のように回答できる。
「ポップコーンの美しさ」はポップコーンに由来し、「存在の美しさ」はまなざしに由来する。
しかしこれは不思議な回答だ。「ポップコーンの美しさ」は「存在の美しさ」であり、そこから「すべての美しさ」を見出したのなら、この二つの美しさは同じものであるに違いない。しかしそれなのに美しさの由来するものが異なるというのは、おかしな話だ。
しかしおかしな話になるのは単に視点が混乱しているからで、「ポップコーンの美しさはポップコーンに由来する」というのは私の主観であり、「ポップコーンを通して私はそんなまなざしを手に入れた」は第三者的な視点である。「世界が美しい」と思う時、美しいのはやはり世界なはずなのである。そう思う人物にとっては。けれど第三者から見ると「世界が美しい」のではなく、「世界が美しい」と思うその人のまなざしが美しいという風に思えるかも知れない。
この当事者と第三者が、同じ一人の人物であるという可能性もあるだろう。つまり「美しい」と思うから、「美しいと思う」と思う、認知からメタ認知への移行である。この場合も、同じ人物だが、そのまなざしは全く変容している。
しかし、そもそもこの問いに意味はあるのだろうか。
対象とまなざしを分離するのではなく、「対象がまなざされる」という現象がこの世界に起こり、そこから美というものが生み出されたのだと単純にとらえてはいけないのだろうか。
現象などという風に意味ありげな言葉を使っているが、何ら特別なことを言っているわけではない。「ともだちと遊んで楽しい」という時、その楽しさが「私に由来するのか」「ともだちに由来するのか」「それとも遊びの内容に由来するのか」を問うことはあまり意味のないことのように思える。この場合、「私」「ともだち」「遊び」という要素は、「私がともだちと遊ぶ」という現象の構成要素の一つに過ぎない。
それと同じようなこととして考えにくいのは、私が「対象」という考え方に捕えられているからかも知れない。私というのは作中主体の「私」でもあり、この文章を書いている私でもある。私は「私」が勝手に解釈しているだけの、架空の主体であり、だからこの病は私に属するものである。
「私がともだちと遊ぶ」には明確にこれが「対象」であると言える「対象」がない。主体がその中に含まれているからだ。「対象」をまなざす主体のまなざし自身が、「対象」の構成要素の一つなのである。
「ポップコーン」や「存在」が美しいのではない。「はじめから美しいのだこの手からこ
ぼれていったポップコーンも」という31音で記される世界全体が作中主体「私」(もちろんこの「私」は≠作者である。この辺は少し紛らわしい)にとって美しいのだ。そういう風に解釈してしまえば、「美しさは、対象に由来するものなのか、それともまなざしに由来するものか」という問いは、わざわざ立てる必要のないものとなる。
 それなのに立ててしまったのは、「はじめから美しいのだこの手からこぼれていったポップコーンも」という31音で記される世界全体が、書き手である私にとって美しいものだからだ。(もちろんこれは論理の飛躍だが)
 つまり私は、「作品」という考え方に捕えられているわけである。なぜかというと、「批評」というものがあるからである。
「批評」は、現象を「まなざし」と「対象」に分離する。そして「まなざし」が認識するものが「対象」に内在するものであると仮定する。そう仮定することによって、「批評」は成立する。
つまり「まなざし」と「対象」の分離は、「批評」を成立させるために、便宜的に存在しているものに過ぎない。しかし「批評」を繰り返す内に、だんだんとそれが実体のように思えてくる。
その私が「批評」と呼ぼうとしているものは一体何なのか。これについては次回に譲ろうと思う。
(つづく)

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