日めくり詩歌 短歌 さいかち真(2012/11/30)

西のくにと思うまで夕日美しき湖の街秋は水匂う

余光と言う明かりの中に包まれてしばし歩めり湖に入るみち

         安部洋子『西方の湖』(砂子屋書房刊)

 この歌の湖は、宍道湖である。作者は、島根県松江市に住んでいる。地方には、こういういい歌を作る歌人がいて、世間の人には、ほとんどその存在を知られていなかったりする。この本の栞を書いているのは、花山多佳子と池本一郎と山田富士郎の三人である。池本も山田も日本海側に住んでいる。
叙景歌が主体なのだけれどもへんに枯れたところがなくて、繊細な夢みるような、やさしい言葉の響きが魅力的な歌が数多くこの歌集に出て来る。掲出歌の一首めを分かち書きしてみると、
西のくにと
思うまで 夕日
美しき
湖の街
秋は水匂う
 というように、一・二句と、二・三句が、句またがりとなっており、字余りの句を重ねながら全体としてバランスをとっているあたり、凡庸な作者のよくなすところではない。こうして分かち書きしてしまうと、定型からはみ出している部分が強調され、きわだってしまうのだが、一行に書きなしてある歌を読んだ時には、自然な印象を持って読めたはずだ。ここには「アララギ」の系統の、それも土屋文明の大きな影響がある。けれども、その一般的にはごつごつとした印象を与えるはずの字余りの多い句法が、作者の場合には、少しも強引な印象を与えない。むしろ独自の生への詠嘆を抱え込んだものとなっているところに、この作者の並々ならぬ韻律のうえでの修練の積み重ねが感じられる。私はかつて川口美根子が六〇年安保の頃に作った嵩高い武張った歌を批評して、「女性にはむずかしい技法と調律の仕方だった」というようなことを書いたことがあるのだが、安部洋子の場合は、すでにそうした域をはるかに抜け出た自在な歌境に到達している。そういったことに気が付く年齢に私もさしかかったし、またその程度には歌がわかって来ると、これより若い世代の新しい作品集の多くが索漠としたものに見えて来てしまうということはあるのだ。

積む雪にひと色となりし道に立つ胸に折れ来る光をうけて
片虹を立てて日照雨の過ぎゆけり湖はひそかに傾きながら
ここに会うほのかに白きえごの花ただよう光もまた過ぎゆかむ
遠見ゆる白鳥三百ふつふつと流れ地上に白き波立つ

 四首めの単純化した白鳥の群のとらえ方のよろしさ。一応ことわっておくと、三首めの結句の表記は、元の歌集の通りである。細かいことを説明すると、作者は現代仮名遣いだが、助動詞の「む」については、歴史的仮名遣いに従っている。作者が所属している「未来」では、ずいぶん前に雑誌一冊まるごとが、一度に現代仮名遣いに変わった時があった。今は新・旧仮名遣いの両方とも可になっているが、作者の世代はそうした外的な条件の影響をもろに被っている。もう一首最後に引いてみたい。

しろしろと湖心に向かう夕潮の深くくぼめるひとところ見ゆ

 この歌人も、写生の方法を通って象徴詩に至る道を歩んだ一人と言ってよいだろう。読むほどに沁みてくる歌である。

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