雁の声のしばらく空に満ち 高野素十
何にもない空に、雁の声の余韻だけが満ちている。雁はもう視界の外にあり、その声も、ほとんど消えかけている。なんとなしに夕空という気がする。何にもない空だから、胸中の思いだけが過ぎて、その思いも雁の声と同じく、刻々と消えゆくものだとわかっている。
ひどく疲れると、いつもこの句に戻る、まるでふるさとに戻るように。ふるさとは、こんな風なものだと思う。事物においても心情においても、これほど何もない句も珍しい。この句において、作者の心情にはベクトルがない。それが未来への希望にせよ、過去への執着にせよ、また明るいにせよ暗いにせよ、どこかへ向かおうとする方向性が、普通、句には感じられるものだ。ところが、ここには何もない。「何にもない」が、何にもない空に「満ち」ているのだ。句中でほとんど消えかけている雁の声は、その何もなさ、何もない空を一層表現するためにある。
怖ろしい句で、懐かしい句だと思う。理想の一句を挙げよと言われれば、ためらわずこの句を挙げる。
この句を、今の文明の終わる直前に、人類の一人が空を仰ぎつつ呟くと、怖ろしく臨場感がある、と常々思っていたのだが、この原稿を書くに当たり、初出を調べてみて、少し驚いた。
「ホトトギス」昭和20年3月号である。20年3月といえば、或る惨たらしい出来事を思い出す。昭和20年3月10日の東京大空襲だ。この句が出来たのは遅くとも昭和19年初冬であろうから、まだ東京は焼け野原になっていないわけだが、この頃の日本に、既に亡びの予感が満ちていたのは、太宰治のこの当時の小説(例えば「右大臣実朝」)を読めばわかる。素十とて、その予感を共有していないはずはない。
当時の「ホトトギス」の部数はどのくらいであったろう。物資不足の折、そうたくさん刷られたとも思えないが、当時の特攻隊の若者に、素十のこの句を知る者はいただろうか。この句を読むと、思い出す一文がある。「私の遺書」(NHK出版)という、御英霊の方々の遺書を集めた本の中に、神風特別攻撃隊振天隊隊長である古川正崇氏の遺書が収められている。その一節を掲げる。
求道
戦死する日も迫つて、私の短い半生を振り返ると、やはり何か寂しさを禁じ得ない。死と云ふ事は日本人にとつてはさう大した問題ではない。その場に直面すると誰もがそこには不平もなしに飛び込んでゆけるものだ。然し私は、私の生の短さをやはり寂しむ。生きると云ふ事は、何の気なしに生きてゐる事が多いが、やはり尊い。何時かは死ぬに決まつてゐる人間が、常に生に執着を持つと云ふ事は所謂自然の妙理である。神の大きい御恵みが其処にあらはされてゐる。子供の無邪気さ、それは知らない無邪気さである。哲人の無邪気さ、それは悟り切つた無邪気さである。そして道を求める者は悩んでゐる。死ぬ為に指揮所から出て行く搭乗員、それは実際神の無邪気さである。
「求道」と題されたこの一節を読み返す度、どうして良いか、わからなくなる。彼はまだ24歳だ。その心情の惨たらしいほどの立派さを思うと、日本人である私は誇らしい以上に、悔しい。もし彼に会えば、深く礼なす以外、何も出来ぬ。
(古川正崇氏が散華されたのは、昭和20年5月29日、沖縄本島周辺の海上であった。ここでその日と場所を記すのは、それが僅かでも供養となると信じたいからだ。)
随分話が逸れた。ここまで書いて、ある種の人々にとって、私の言葉は全く滑稽に見えるだろうことを考える。別に構わない。私は死を超えるものについて語っている。ここから先、更に滑稽に見えるだろうことを予測しつつ、私は止めない。では、次の句について語ろう。
忘れちゃえ赤紙神風草むす屍 池田澄子
この句を論じようと決めるまで、随分長く掛かった。延々と考え続けて、今でもはっきりとした結論が出たとは言い難い。けれども、今この時期に言わねばならないと思うから、言う。
最初、この句を読んだとき、正直、血の気が引いた。言葉通りに読めば、それはそうだろう。血の気を引かせたのは、私の中の怨念である。特に「忘れちゃえ」の「ちゃえ」が辛かった。忘れちゃえ、忘れちゃえ、か、と私は幾度も呟き、その内に、この「ちゃえ」が妙に気になり出した。「忘れたい」ならわかる、「忘れます」も、「忘るべし」も。いずれも大人の見解だ。だが、「ちゃえ」とは何だろう。ふざけているのでなければ、まるで子供の言葉ではないか。
その後、作者の父君が軍医として召集されたこと、作者が9歳の時、戦病死されたことを知った。そのとき、「忘れちゃえ」に納得が行った。
それは父を戦場で失った、9歳の少女の言葉だ。父に対して、作者は九つから歳を取っていない。幼い少女のまま、父はどうして帰ってこないのだろう、と思っている。大人になり、日本が高度成長を続け、バブルが到来し、弾けた今でも、父は若いままで、そして帰ってこない。父が帰らぬ限り、作者の中の子供は、いつまでも考え続ける。戦争について、男たちが故郷を出て、遂に帰らなかったことについて、その後の平和について、平和の中でなされる先の大戦への様々な評価について。天皇陛下万歳が一転してマッカーサー万歳となり、シベリアからの引き揚げに伴いスターリン万歳が混ざり出し、次いで毛沢東万歳が始まる。やがてバブルの到来と共に、贅沢万歳の大合唱だ。あの大戦への評価は移り変わってゆく。この先もころころと移り変わり、未来永劫確定することはないだろう。侵略戦争だったのか、自衛だったのか、アジアの解放だったのか。仕方なかったのか、避けられたのか。戦争しなければ日本はどうなっていたか。植民地になったのか、それとも巧みな外交で大戦をやり過ごせたのか。「聖戦」と歓呼されて始まった戦争に、果たして大義はあったのか、なかったのか。大義があったのなら、どこかで変質したのか、しなかったのか。変質したとすれば、どこからか、ミッドウェー海戦から、ガダルカナルから、それともそもそも真珠湾攻撃からか。
少女には、その当時の大人たちの顔が浮かぶのだ。勝つと信じて晴れ晴れとした顔。もう日本は滅びる、みんな奴隷になると俯いた顔。国を護る、と凛然と上げられた顔。家族の未来を思い悩む顔。様々な顔の彼方に、記憶の父の顔が浮かび、どうして、と少女は思うのだ。どうして父は傍にいないのだろう、どうして父は死なねばならないのだろう。その父の死さえも、侵略戦争の犠牲者なのか、それとも祀られ敬われる英霊なのか、70年近くも経って、未だ誰一人、自国の政府のお偉方さえも、明確な回答を言えない。
だから、作者の中の、父を失った少女は、いつまでも少女のままだ。誰も、少女にもわかるような明確さで、父の死を納得させてくれないから。
これがアメリカなら、父は疑いもなく英雄だろう。父の死に意味があったと、国家が保証してくれるだろう。だが、日本は負けたのだ。
父の不在を考え続け、反芻し続けた挙句、少女は吹きすさぶ悔しさの中で、「忘れちゃえ」と突然思うのだ。赤紙を神風を草むす屍を。それらによって定義づけられた父の死を。忘れなければ、父と向き合えない。戦争によって様々に色付けされ定義付けられた父の死ではなく、国家とか正義とか理想の社会とか、少女にとっては概念にしか思えない不純物を一杯にまとわされた父ではなく、生身の、自分の頭をただ撫でてくれる父と向き合いたい。
「忘れちゃえ」と、少女は拳を振り上げるのだ。自分と父との間に立ちはだかる「歴史」というものに対して。永遠に確定しない、先の戦争の意味に対して。
少女に対し、誰が物を言えよう。様々な賢しげなことが言えよう。彼女の悔しさを、ただ見守るしかないではないか。
「反戦」の句ではない。ましてや「反国家」の句ではない。スローガンでもなければ、国家への挑発でもない。少女は、父と二人きりになりたいのだ。その上で、父が戦争についてどう思っているか、もし父が語るなら、聞きたい。父の言葉なら、黙って耳傾けよう。
私は、この句をそっとしておきたいのだ。少女が、いつか父と二人きりになれるかも知れぬ、そのときのために。だが、今ここで、この句について論じたのは、右傾化する昨今の事情を考えるからだ(ここで右傾化の是非は言わぬ)。この句が何かのスローガンに使われたり、あるいは逆に、攻撃の対象になったりするのを見るのは、あまりに忍びない。
生きている人間は、生きている自分たちの都合で、ああだこうだと主義主張する。この句に関しても、言うかもしれぬ。そんな惨いことはするな。
もしこの句の是非を裁く資格があるとすれば、それは靖国に鎮まる英霊たちだけだろう。そして英霊たちは、決してこの句を裁かぬだろう。
もし作者が靖国に行くことがあれば、と私は想像する。人のなるべく少ない、平日の晴れた午前を思う。靖国の本殿の前に立ち、作者はこの句を呟くかも知れぬ。英霊たちの誰一人、作者を責めたりはしないだろう。ただ見守っているだろう。英霊たちの誰かが、少女に、こちら側からは見えぬ微笑みを向ければ良いと思う。必ず向けるはずだ。少女は長い間、苦しんだのだ。