七曜詩歌ラビリンス 7 冨田拓也

12月某日

週刊俳句編『俳コレ』(邑書林)を繙読。

内容は、1934年生まれから1993年生まれの22人の俳句作者の作品100句を収録したアンソロジーである。100句の収録作品は全て自選ではなく他選となっている。個人的には、もし作者自身の手による自選100句が行われたとすれば、果たして今回の他選100句とどの程度作品の印象が変わっていただろうかという点が結構気になるところ。一応、本書には資料として栞に各々の作者の7句が編集部の手によって選出されているが、これは実に気の効いた配慮で、やはり選者による100句選のみならず、別の角度からの作品の補足というものが、今回の場合どうしても不可欠であるように思われる。

ともあれ、本書については、既にネット上で相当に文章が出ているので、ここでは気儘にそれぞれの作者の作品を読んだ感想だけ書かせていただくことにしたい。

出航のやうに雪折匂ひけり 野口る理
コロッケのがしやと置かるる雪催 〃
蔦の芽やどこへ行つてもいいらしい 〃
虹のこと話せば話すほど曖昧 〃
ひつじ雲もう許されてしまひけり 〃

飯島晴子や金田咲子ではない。永末恵子やあざ蓉子とも違う。若干近いのは佐藤文香句集『海藻標本』の世界であろうか。しかし描出されているイメージはもっと明確であり、やはりまた別のものであろう。割合空想的な性質の強い側面があるようであるが、単純にその空想性に一切を委ねてしまうというわけではなく、日常性を垂鉛とすることで上手くバランスを取っている。若干思想的なものが見え隠れする点もこの作者の特徴か。

歩き出す仔猫あらゆる知へ向けて 福田若之
キャンピングカーと蛙の物語 〃
翼いらないよ 春の雷と光 〃
息白く消えて途方もなく昨日 〃
雨しきり短い夜であることを 〃

「影響を受けた人」の欄に櫂未知子、池田澄子という名が見え、さもありなんと納得。優れた評論の書き手でもあり、作品全体を見ると相当考えながら句作を行っていることがよくわかる。口語や字空け、句読点の使用などいくつも試行錯誤が見られ、規範的な俳句の枠組みにとらわれてしまいたくないという強い気概が窺える。テーマ性にも自覚的で、今後の作品展開に注目される1人であろう。

サイダーの氷の穴に残りをり 小野あらた
ふりかけの魚の固きそぞろ寒 〃
大きさの違ふ跣足の並びけり 〃
対岸にタンクの並ぶ雷雨かな 〃
コロッケの中の冷たきクリスマス 〃

1993年生まれということで、今回のアンソロジーの中では最年少の作者ということになる。作品としては、事物に対する感応がそのまま素直に表現されているといっていいであろう。それこそ句作に対する実直な姿勢というものが、そのままに伝わってくる作風となっている。

不健全図書を世に出しあたたかし 松本てふこ
原稿料入りし夜の林檎むく 〃
歳末や着ぐるみを着て立つ仕事 〃
悴みてけふの仕事にありつきぬ 〃
西瓜食ひつつよダフ屋の呼込は 〃

今回最も他選が功を奏した例といえるであろう。作者の日常の風景が何の衒いもなくそのまま作品に反映されているところが興味深い。強い生活感とその卑近な面白さがストレートに感じられるところがある。もしかしたらこれは短歌の永井祐あたりの作風に近いものがあるといえるのかもしれない。

雲に乗る方法蝌蚪に足が生え 矢口晃
会社辞め口座残りぬ年の暮 〃
ワーキングプアコスモスは花を挙げ 〃
夢の無き時代の栗を拾ひけり 〃
耐へてゐる冬日を浴びて生きてゐて 〃

日常性という部分では松本てふこと割合共通する面があるといえよう。ただこの作者の作品には、現実のヘビーさというものが相当に色濃く漂っているという点でやや異なる。書くことの切実さというものが作品の内に強く刻み付けられており、それがそのままのかたちで伝わってくるところがある。

日没はいづこの日の出かいつぶり 南十二国
空想と紙の空白鳥曇 〃
十年後町はなに色チユーリツプ 〃
雲割れておほきなひかり浮寝鳥 〃
囀や朝は頁のやうに来る 〃

世界に対する肯定性がそのままストレートに俳句形式を通して描き出されているようである。その清新な作風からは、どこかしら谷川俊太郎の詩の世界を髣髴とさせるところがある。俳句を始めてからそれほど歳月が経過していないと思われるが(5、6年程度?)、それでもこのような句を成すことができるのは生来の資質による部分も大きいのかもしれない。

日曜の終つてしまふ躑躅かな 林雅樹
多摩川の日暮れてきたる麦酒かな 〃
ドアノブに指の映れる薄暑かな 〃
守りたい人はゐません猫じやらし 〃
コンベヤを寿司過ぎゆける日永かな 〃

割合ふざけたような作風(勿論本人は大真面目のはず)が基調となっているが、その中で非常にボリュームを絞った書き方というか、それこそ「超低空飛行」とでもいった趣きの句がいくつか見られる。無内容ゆえの強さというのであろうか、こうなると意外に押しても引いても作品が倒れないようなところがある。

歳月の流れてゐたる裸かな 太田うさぎ
きつねのかみそり迷子になつてゐないふり 〃
電話して菊人形の裏に居り 〃
囀れり水面を低く飛ぶときも 〃
時速百キロつぎつぎと山笑ふ 〃

全体的に無理なく自然体で句作を行っているような印象を受けた。普段の生活の中から目にした事象を手際よく掬いあげる手腕に長けているといっていいであろう。また、過去の自分自身についての記憶、もっといえば「童心」の要素もまたこの作者における重要なキーワードのひとつといえるはずである。

閂に蝶の湿りのありにけり 山田露結
用もなく人に生まれて春の風邪 〃
コピーして赤はグレーに昭和の日 〃
王将の涼しき方へ逃れけり 〃
未来とは記憶のごとし蟬の殻 〃

どちらかというと脱力系の作者といえようか。全体的にあまり気負ったところがなく飄々とした印象。ただ、その作品の根底には抒情の要素が相当色濃く漂っているようである。「小実昌忌」、「昭和の日」、「王将」、「半畳」、「えんぴつ削り」、「太宰」などといった言葉がノスタルジーを感じさせる。

巣箱より高きところに住んでをり 雪我狂流
水底に光散らかし泳ぐなり 〃
素足にてたくさんのもの踏みにけり 〃
ゆきがふとんだから街が眠い 〃
風船を持つ手は少し高く上げ 〃

俳号の読み方が「ゆきがふる」であるとのこと。漢字のみの少々取っつきにくい俳号ながら読み方が分かると容易には忘れられないインパクトがある。作品はあまり衒いがないというか、全体的にぼんやりとした「投げっぱなし」のような作風。その作品を読んでいると、いい意味で眠くなってくるようなところがある。

卒業の椅子いつせいに軋みけり 斎藤朝比古
金属を通つてきたる夏の水 〃
動力は輪ゴム三本夏休 〃
足の指開きて進む西瓜割 〃
裂ける音すこし混じりて西瓜切る 〃

ミニマリズムの面白さというのであろうか。誰もが見落としてしまうような微細な発見を言語によって捉え俳句形式の内へと掬い取る手腕の確かさというものを、作品を読みながらそのまま感取することができる。

芍薬を剪って夕方ふらふらす 岡野泰輔
麦を踏むかたちに綱の上の男 〃
牛乳をうすくのばせば仔馬なり 〃
小鳥来るあゝその窓に意味はない 〃
人帰り菜の花がまだ見えている 〃

全体的に口語による軽い印象の作風であるが、割合抒情の要素も見え隠れするところがあるようである。所謂「ライトヴァース」的な俳句の書き方といって差し支えないと思うが、このような作風からは、改めて俳句形式と口語表現の関係性という問題について考えさせられるところがある。

歯を削る音満開の花椿 山下つばさ
サイレンとカレーの混ざり合ふ朧 〃
ゆらゆらと金魚のふんやヘリ通過 〃
色鳥が道に書かれし文字の上 〃
水槽の中の冬日に触れてゐる 〃

リアリズムとフィクション性が融合したようなやや混沌とした印象の作風。都市空間における様々な現象を俳句形式を通して形象化しているわけであるが、ひたすら虚飾を排そうとする指向性が見て取れる。そのことによって、これらの作品からは、現実における生そのものが抱え込んでいる「どうしようもなさ」といったものが割合強く感じられるところがある。

夕焼けやウイルスを美しく飼い 岡村知昭
沈丁花ここで万葉集が来る 〃
文月の掛け算の大間違いよ 〃
きりぎりす走れ六波羅蜜寺まで 〃
鵺よくも絶縁体を嗅ぎにけり 〃

妙な句が多く、言葉と言葉の意外な組み合わせから派生するイメージの奇襲がなかなか面白い。意味がいまひとつわからないながらも作品として成立しているように感じられる句が多いのは、おそらく言葉の斡旋の巧みさと、韻律の軽快さゆえであろう。あと、内容が全体的に地上的で割合猥雑な印象があるが、具体的な私性はあまり顔を覗かせない。ここからは言葉のみで作品世界を現出させようとする意志が窺えるように思われる。

薄紅のまじる墨色蝌蚪の腹 小林千史
十二月光をのぼりつめて塵 〃
家の中ただ明るくて葱粘る 〃
葱坊主きつと助けてあげるから 〃
風の森秋をしづかに吹き伏せぬ 〃

少々特異な性質を秘めた作者といえよう。日常身辺から自然界の事象、さらには心象風景までをも俳句作品へと形象化する力業の持主。今後この「内なるカオス」からどのような作品空間が繰り出されることになるかなんとも楽しみなところである。

しあわせな木の実まざりし鳥の糞 渋川京子
ゆきずりの街なれば好き金木犀 〃
間取図に足す月光の出入り口 〃
鮎よりも冷たし兄のサキソフォン 〃
フラスコの必死のかたち桜咲く 〃

割合「無頼派」とでもいうべき印象が感じられた。作品を読み終えた後、著者の略歴を見ると「頂点」、「面」、「明」所属という記載があり、「明」については不明ながら、「頂点」、「面」といえば、系譜としては西東三鬼系の俳句誌ということになる。作品の語彙の端々からやや客気のようなものが感じられるのはそのためでもあるのかと深く納得。

ひんやりと手鞠に待たれをりにけり 阪西敦子
立子忌の坂道どこまでも登る 〃
沈黙を巻き上げて火よ御水取 〃
先生と叫ばれてゐる立夏かな 〃
金魚玉見ながら水を飲んでゐる 〃

幼少の頃から(7歳くらい?)句作を行っていたそうで、相当に俳句のキャリアは長いということになる。しかしながら、これは老練なのか天然なのか。不明であるが、ホトトギス系作家の作品特有の「薄い感じ」があまりせず、割合「厚み」のようなものが感じられる。あと、肉体性を伴った奇妙な感覚の作品をいくつも見出すことができるのも特徴のひとつであろう。

山脈の鋭(と)きをばたばた凧のぼる 津久井健之
風船に祝日の息吹き込みぬ 〃
雨垂れに耳を澄まして夏の風邪 〃
初日浴ぶ万のレコードコレクション 〃
あをぞらにふれたる水面氷りけり 〃

割合穏健ともいうべき作風であるが、なかなか忘れ難い印象を残す句がいくつか見られる。日常身辺に材を摂った句が多いが、個人的にはその中にそれこそ鋭敏とでもいうべき繊細な感覚が見出せるところに興味深い思いのするところがあった。

アトリエのカーテンは無地夜の秋 望月周
月の夜の卵の中で甲羅育つ 〃
夜を眠る草より穂絮飛びやまず 〃
手に負へぬ無口と月を仰ぎけり 〃
眠る山即身仏を虫の食ふ 〃

作品への強いこだわりが感じられる作者である。それゆえに注意深く作品を読まないと作者の意図を見落としてしまうような句が少なくない。作品全体としては、表向きは割合穏やかな印象の句が少なくないが、その実質は結構熱いロマンチストであるのかもしれない。「影響を受けた人」に「野見山朱鳥」の名前が出てくるのも納得。

降り暗みきて耕人の舞ふごとし 谷口智行
月の田をざんぶざんぶと猪逃げゆく 〃
子でゞ虫くつついてゐる山刀 〃
帰ろ帰ろ轢死の貂のゑまひをる 〃
麩のごとき蝙蝠の子を拾ひけり 〃

やはり「熊野の医師」というところが作風の大きな特色となっている。そういった意味では作品における素材の特異さに単純に目を奪われてしまうところがあるが、よく見ると表現技量の方も相当に確かなものがあるということがわかる。その表現力の確かさが基盤となっているゆえに、熊野の風土性とそこに暮らす人々の生活模様を具体的に生々しく描き出すことが可能であるのであろう。

春の潮すれすれに島灯るなり 津川絵理子
病む人のまた起きてくる夜長かな 〃
夜通しの嵐のあとの子規忌かな 〃
飛び石のひとつが遠し秋の草 〃
子規の目がありぬ枯草枯葎 〃

事物の在りようをそのまま書くタイプの作者といえよう。全体的に作品内容が明確でわかりやすい。第1句集である『和音』から「『和音』以降」へと進むに従って、表現の生硬さがやや薄れ、作品の深化が確認できるように思われた。

音と見やれば夕立の中に町 依光陽子
水を水と思はぬ魚や秋の雨 〃
木が足らぬ落葉に埋もれ尽くすには 〃
夜の鴨壁に八手の影が濃く 〃
甘茶仏去りゆく我の映るべし 〃

考えて書くタイプの作者であろう。評論についても非常に卓越した書き手であり、その読書量は相当なものであると推察される。作者としては本来的には文学派であるのであろうが、それを所謂「俳」の要素によって意識的に希釈している。テーマとしては「存在と時間」といったあたりに的を定めているとみていいではずである。今後このテーマとの格闘がどのような作品展開を見せることになるか注目される。

ということで、取り敢えずそれぞれの作品を通読してみたわけであるが、全体の印象を語るのはどうも難しい。一応、読後の印象を思いつくままにいくつか挙げてみると、

  • しっかりと考えられた上で本が作られている。
  • 人選にバランス感覚が感じられる(いい加減な人選ではない)。
  • 収録されているそれぞれの作者の個性というものが割合ばらばら。
  • 全体的に「現代っぽい」というか、所謂「伝統俳句」といった印象が希薄。
  • プロフィールの欄に「影響を受けた人」の記載があるのが面白い。

といったところとなろうか。

ともあれ、今後どうなるのかは知らないが、『新撰21』、『超新撰21』、『俳コレ』に続く「シリーズ第4弾」の企画刊行を今から期待したいところ。

12月某日

関悦史句集『六十億本の回転する曲つた棒』(邑書林)を繙読。

著者は、1969年生れ。詩人吉岡實の散文から富澤赤黄男、永田耕衣、高柳重信の存在を知り、数年後の20代半ばより句作開始。現在「-俳句空間-豈」同人で、今回の句集が第1句集となる。

圧巻の句集である。〈Ⅰ日本景、Ⅱマクデブルクの館、Ⅲ介護、Ⅳ襞、Ⅴゴルディアスの結び目、Ⅵ百人斬首、Ⅶ発熱、Ⅷ発熱、Ⅸうるはしき日々〉の9章から成り、全796句が収録されている。

Ⅲの「介護」はこれだけでも1冊にする価値があるのではないかと思われるほど感動的な作品群。Ⅸの「うるはしき日々」は居住地である茨城県での震災による被災とその後の生活の生々しさを非常に克明に伝えている。

全体的な作風としては、金子兜太、安井浩司、竹中宏、攝津幸彦あたりの作風を髣髴とさせるものがあるといえそうである。ただ、金子兜太とはアニミズムの点において決定的に異なり、安井浩司とは汎神論的な世界との相違がある。竹中宏の作品は非常に地上的な作風であるが生活人としての顔は殆ど見えないという点において異なる。また、攝津幸彦の作風と割合共通項があるものの決定的に異なるのはやはり「私性」の有無ということになるであろう。ということで、これらの作者と共通性を有しつつも、やはりその作風は別のものということになるように思われる。

結局のところ、そのスピード感と強烈なリアリズムを伴う作風から関悦史という作者は俳句の世界におけるエズラ・パウンド(1885~1972年)ということができるのかもしれない。

この句集は「連作」的な色合いが強いため、抄出はあまり意味をなさないかもしれないが、以下作品をいくつか。

うすごろも落つる高層団地かな
蠟製のパスタ立ち昇りフォーク宙に凍つ
CD十枚吊られ寒鴉へ乱す曙光
人類に空爆のある雑煮かな
歯痛既に星間をゆく春日傘
どこの莫迦が人など造つた へい、あッしが
フロントガラスに銀河は裸婦の如く来る

12月某日

高橋睦郎『シリーズ自句自解Ⅰベスト100 高橋睦郎』(ふらんす堂)を繙読。

このところ、評論集『よむ、詠む、読む 古典と仲よく』(新潮社)、『季語百話』(中公新書)、評論集『詩心二千年』(岩波書店)、詩集『何処へ』(書肆山田)など、実に精力的な活動を続けている作者であるが、ここでさらにこの『シリーズ自句自解Ⅰベスト100 高橋睦郎』の1冊が加わった。

自句自解については、よく必要ないという意見があるが、確かに575のみで屹立しようとする俳句にとってそういった解説めいたものは余分であるのかもしれない。しかしながら、一方で俳句作品に対する読みの力が相当に衰退しているであろう現在の状況を考えた場合、むしろ作者による自解があった方が作品を読む力や理解を深めるためのツールのひとつとして重要な役割を果たす部分があるというのも事実であろう。

作者の意図は作品の理解のためには必要無いとは確かロラン・バルトの意見(「作者の死」)であったが、これはこれでまた問題があるといえよう。また、作品理解のためには、作者の身を置いている時代状況や生活環境といったものをやはり単純に無視してしまうわけにはいかないという側面もある。

本書の内容としては、100句が選出されており、各々に200字程度の文章が付されている。自解の部分には、結構生々しい記述がいくつかあり(母親との関係性、安東次男と山本健吉など)、ノンフィクションゆえの面白さというのであろうか、つい引き込まれてしまうところがある。

無論、作品の解説自体も面白く、文章を読みながら成程と思うことがしばしば。安東次男による作品添削の逸話も興味深い。また、本書において著者は一貫して自身とその作品を「他者」として眺めるというスタンスに徹しており、この客観性が本書を単なる「自句自解」とは異なる性質のものとしているポイントであろう。また、本書の最後には、「俳句に学ぶ」という文章が付されてあり、そこで「俳句の存在理由」にまで言及がなされている点にも注目される。

本書は、選句集としても読むことができ、また自伝的な風趣も感じられ、そしてそれのみならず俳句を通してのある種の思想書としての側面をも有す1冊となっている。

棹ささむあやめのはての忘れ川
山深く人語をかたる虻ありき
冬の海吐き出す顎のごときもの
賚(たまもの)のごとく小雪や朝寝して
寄りものを波に拾ふや五月来ぬ
恋の闇来にけりけりと遠蛙
山めぐる姥は時雨の名なりけり
闇わたる白しや声のほととぎす

12月某日

岸本尚毅『生き方としての俳句 句集鑑賞入門』(三省堂)を繙読。

この著者もこのところ『俳句の力学』(2008年10月) 、『高浜虚子 俳句の力』 (2010年10月)、『ベスト100 岸本尚毅 (シリーズ自句自解)』(2011年6月)、『秋 虚子選ホトトギス雑詠選集100句鑑賞』(2011年12月)など著作の刊行が少なくない。

本書の内容としては、第1部が「句集とは何か」という説明で、第2部は「句集鑑賞」と題して36人の俳人の句集を解説した内容となっている。

第2部では、以下の俳人が取り上げられている。

西山泊雲 岡本松浜 鈴木花蓑 長谷川零余子 野見山朱鳥 上野泰 湯浅桃邑 上村占魚 河野静雲 高野素十 後藤夜半 森川暁水 星野立子 京極杞陽 高木晴子 杉本零 原月舟 松藤夏山 島村元 芝不器男 高橋馬相 清原枴童 野村泊月 池内たけし 平松措大 五十嵐播水 高浜年尾 木村蕪城 清崎敏郎 軽部烏頭子 大橋桜坡子 岡田耿陽 皆吉爽雨 福田蓼汀 橋本鶏二 波多野爽波

少々「渋すぎる」といってもいいような人選であるが、本書の「あとがき」では飯田蛇笏、原石鼎、前田普羅、富安風生、山口青邨、中村汀女、中村草田男、川端茅舎、松本たかしなど頻繁に取り上げられている俳人は敢えて対象外にしているとのこと。また、これらの作家論は1句1句の解説が短く簡潔なため読みやすく、アンソロジーとしても活用することができる。そういった意味では、資料的価値の高い1冊ともいえるであろう。

12月某日

『徳永政二フォト句集1 カーブ』(あざみエージェント 2011年10月刊)を繙読。

書店で見かけて、ついふらふらと購入してしまった。40頁弱の本で、藤田めぐみの写真と共に徳永政二の川柳作品が合計25句収録されている。

徳永政二は、1946年香川県生まれの川柳家で、現在滋賀県に在住し、「川柳びわこ」の編集人であるとのこと。

何も書いていないところは水ですね 徳永政二
一本の木から汽笛を聴いている 〃
こころとはどんなものかと石段を 〃

全体的に口語による抒情的な作風。しかしながら、俳句とは異なり季語がなく、それゆえかさっぱりと軽い印象で、その透明感からは割合現代的な雰囲気が感じられるように思われた。所謂「川柳らしさ」がさほどなく、それこそしずかな一行詩とでもいった趣きとなっている。

今後、続編も刊行予定であるらしい。

2「大阪の泡」

3「くりかえす」

4「家族の名前」

5「背びれ」

12月某日

俳句誌『傘』3号が刊行された。

誌名は「からかさ」と読む。現在は藤田哲史(俳句結社「澤」所属)が1人で編集を行っているようである。誌面を見ると、今回もレイアウトなどに相当凝っていて相変わらずのセンスの良さを感じさせる。

「傘」は、第1号「佐藤文香特集」、第2号「ライトヴァース特集」ときて、今回の第3号の特集は「飯田蛇笏」となっている。執筆者は藤田哲史、小川楓子、青木亮人、生駒大祐の4人。

藤田は「若者のすべて」というタイトルで、洗練される以前の蛇笏の初期作品における混沌とした魅力を浮き彫りにしている。小川は「大いなる袋 ―『山廬集』よりー」で、野口体操の創始者野口三千三の言葉を援用して蛇笏の身体感覚の在り方を深く考察。青木は「詩にすがる念力 -大正期の蛇笏についてー」で、「詩」や「小説」といった文学活動の盛んな東京を離れ郷里に戻ることになった蛇笏の心情を綿密に推察している。生駒は「蛇笏と龍太」で、蛇笏と龍太の作品における共通点と相違点を各々の作品や評論を元に詳細に炙り出している。

いずれも高い水準を示す評論であり、今後蛇笏という作者を考察する上で有用な示唆を少なからず有しているように思われた。

今後もこの「傘」においてどのような特集が組まれることになるか期待されるところである。

火を埋めて更けゆく夜のつばさかな 飯田蛇笏
詩にすがるわが念力や月の秋 〃
みるほどにちるけはしさや秋の雲 〃

12月某日

俳句誌『星の木』8号を繙読。

音の澄みてこれは最後の鉦叩 大木あまり
バス見えて傘をたたみぬ冬の街 石田郷子
絮と絮つながりとべり年の空 藺草慶子
声にして月の下まで手を延べむ 山西雅子

12月某日

12月ということで、今年も早くも終りに近い。毎月この連載では、現代詩、短歌、俳句関係の新刊書籍を取り上げているわけであるが、やはり当然のことながら挙げ忘れている書籍の数が少なからず存在する。ということで、ここでいくつか補足しておくことにしたい。

  • 片桐ユズル詩集『わたしたちが良い時をすごしていると』(コールサック社 2011年7月)
  • 『パステルナーク全抒情詩集』工藤正廣 訳(未知谷 2011年9月)
  • 藤井貞和『東歌篇――異なる声 独吟千句』(反抗社出版 2011 年9月)
  • 森澄雄『遺稿 森澄雄俳話集〈上〉』(永田書房 2011年9月)
  • 森澄雄『遺稿 森澄雄俳話集〈下〉』(永田書房 2011年9月)
  • アルセーニイ・タルコフスキー詩集『白い、白い日』前田和泉/訳 鈴木理策/写真(エクリ 2011年10月)
  • 津沢マサ子『穹天譜』(深夜叢書社 2011年11月)

1月某日

2012年となり、「七曜詩歌ラビリンス」も今回で7回目を迎えることとなりました。

本年も何卒よろしくお願いいたします。

1月某日

最近の現代詩の刊行物をいくつか。

  • 陳克華『無明の涙』(思潮社)
  • 杜国清『ギリシャ神弦曲』(思潮社)
  • 洛夫『禅の味』(思潮社)
  • ジョン・ミルトン『劇詩 闘士サムソン』(思潮社)
  • ゲーリー・スナイダー『新版 野性の実践』(思潮社)
  • 瀬崎祐『窓都市、水の在りか』(思潮社)
  • 大高久志詩集『空に映す』(書肆山田)
  • 高橋睦郎『詩心二千年‐スサノヲから3・11‐』(岩波書店)

1月某日

最近の短歌関係の刊行物をいくつか。

  • 馬場あき子(選歌集)『舟のやうな葉』(短歌新聞社)
  • 福島泰樹歌集『血と雨の歌』(思潮社)
  • 喜多昭夫歌集『早熟みかん』
  • 山中智恵子『椿の岸から』(砂子屋書房)
  • 笠原芳光『増補改訂 塚本邦雄論 逆信仰の歌』(砂子屋書房)
  • 岡井隆『わが告白 ― コンフェシオン』(新潮社)
  • 岡井隆『森鷗外の『うた日記』』(書肆山田)
  • 三枝浩樹『八木重吉 たましひのスケッチ』(ながらみ書房)

1月某日

最近の俳句関係の刊行物をいくつか。

  • 週刊俳句編『俳コレ』(邑書林)
  • 関悦史句集『六十億本の回転する曲つた棒』(邑書林)
  • 小川双々子句集『非在集』(木偶坊俳句耕作所)
  • 『季題別 森澄雄全句集』(角川書店)
  • 高橋睦郎『シリーズ自句自解Ⅰベスト100 高橋睦郎』(ふらんす堂)
  • 岸本尚毅『生き方としての俳句 句集鑑賞入門』(三省堂)
  • 俳句誌『ロータス』21号
  • 俳句誌『ぶるうまりん』20号
  • 俳句誌『インサイ』(現代俳句協会青年部)
  • 俳句誌『傘』3号
  • 俳句誌『星の木』8号

1月某日

青土社から2月上旬頃に、『パウル・ツェラン全詩集』全3巻(中村朝子 訳)が「改訂新版」として刊行される予定であるとのこと。

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