七曜詩歌ラビリンス 1 冨田拓也

6月某日

今回から「俳句時評」を取り敢えず卒業(?)し、これまでの俳句のみならず現代詩、短歌なども視野に入れたもっと広い意味での「時評」を試みる運びとなった。

以前「―俳句空間―豈weekly」において「七曜俳句クロニクル」という日記形式による文章を書き続けていたのであるが、ある日ふとその日記形式で今後、短歌、俳句、現代詩などの動きをリアルタイムで追いかけてみればどうだろう、という考えが思い浮かんだ。

その後、編集部とある要件で少しやりとりを交わす機会があり、気がついた時にはこの思いつきを実行に移すことに話が決まっていた。「俳句時評」については交代ということになり、今後関西でも屈指の論客の方が担当されるとのこと。

ともあれ、思えば、この「詩客」という場所において、現代詩、短歌、俳句と3つのジャンルが折角一同に会しているのであるから、ここでなんらかの関わりを持たないという手はないであろう。

取り敢えず、タイトルは「七曜詩歌ラビリンス」とした。ただの気儘な「見物人」に過ぎないが、これからはこの場所において詩歌全般について少しばかり取り上げてゆくことにしたい。

6月某日

現代詩、短歌、俳句、川柳、海外詩、評論集、総合誌、結社誌、同人誌、新聞、ネット。

これからはなるべくこのあたりをある程度見張っておく必要があるということになりそうである。

6月某日

現在話題の「蔦系女子」の俳句サイト「spica」にて、「百句晶晶」という連載を始める運びとなった。

どうにか無事に100句選を完結させたいところ。
他の記事も充実した内容なので、是非ご一読を。

6月某日

笠間書院の「コレクション日本歌人選 全60巻」の刊行が開始されている。
全巻読んでみたいと思わせるコンパクトな内容。こういったシリーズは俳句では刊行されないのであろうか。

6月某日

俳句の世界では、『新撰21』、『超新撰21』と若手の俳人によるアンソロジーがここ数年で刊行されたのであるが、この『新撰21』の「短歌ヴァージョン」というのは出ないのであろうか。

もし現在これを企画刊行すれば、今後短歌の世界における名伯楽の名をほしいままにできるかもしれない。

6月某日

『続三枝浩樹歌集』(砂子屋書房)を購入。

にぎりしめるとこぼるる砂はとめどなし ひかりとなりて皆過ぎゆけり
四季のめぐりにささえられ来し夢ありて折り折りのうた水のごとしも
言葉とは存在の家 ひとすじのひかりとなりていま月は射す
秋のながれ夏のながれのゆきあいてひととき樫はそよいでいたり
ところどころ落葉に及ぶ冬の日のいたわるようなてのひら見ゆる
かたちなくおもてなき世の闇のなか言葉は神とともにありしや
のちのおもいにいざなうゆうひありしなり路上を濡らす瞬のまぼろし
風過ぎしなごりのなかに舞い落ちるしずけきかげも秋と言うべし

殆ど夾雑物の混入することのないなんとも純粋な言語世界が静かに展開されている。人知れぬ奥まった場所で密やかに滾々と湧き続けている泉にも似た印象とでもいえようか。このような作風は現在の短歌の世界においても少々異彩を放つものといえるのではないかという気がする。

6月某日

岡井隆の最新歌集『静かな生活 短歌日記2010』がふらんす堂から刊行されたとのこと。

この前の歌集『X イクス-述懐スル私』が短歌新聞社から刊行されたのが2010年9月であり、さらにこの間、角川書店の『短歌』2月号でも100首もの新作が掲載されていたが、本当に多作といった印象。評論集も含め、歌人の人達はこの人の仕事を追いかけるだけでもなかなか大変だろうな、という気がする。

7月某日

書店にて詩歌関係の棚を物色。
石井辰彦歌集『詩を弃(す)て去って』(書肆山田)、河野裕子歌集『蝉声』(青磁社)、『シリーズ牧水賞の歌人たちVol.6 小島ゆかり』(青磁社)などの短歌関係のほか、和合亮一の3冊の詩集の存在などが目についた。

7月某日

須藤徹氏が代表である俳句誌「ぶるうまりん」の17号、18号を繙読。
短歌などの俳句以外の他ジャンルまで目を配り、並んでいる評論もレベルが高い。17号の特集が「俳句・短歌における叙事(神話)と叙情」、18号が「俳句・短歌と時間」で、現在俳句の世界において、これだけ企画と評論に知恵を絞っている俳句誌は稀少であろう。
他に俳句誌で評論が充実しているのは、せいぜい、「豈」、「未定」、「鬣」、「ロータス」、「翔臨」、「澤」、「天為」くらいであろうか。

7月某日

俳句誌「翔臨」71号が刊行された。
鷹わたる振り子老いずに遠くへ往く      竹中宏
涅槃の夜首都に殴(う)ちあふ相手が要る    〃
三月来るきざしにふるへ竹の波         〃

まさに現在における孤高の俳人のひとりであろうが、読み手としてはどこまでその作品を理解できているのかなんとも心許ない。

7月某日

最近の現代詩の刊行物をいくつか。

村嶋正浩『晴れたらいいね』(ふらんす堂)
手塚敦史『トンボ消息』(ふらんす堂)
『大野新全詩集』(砂子屋書房)
和合亮一『詩ノ黙礼』(新潮社)
和合亮一『詩の礫』(徳間書店)
和合亮一『詩の邂逅』(朝日新聞出版)
現代詩文庫『川上明日夫詩集』(思潮社)
現代詩文庫『秋山基夫詩集』(思潮社)
天沢退二郎『アリス・アマテラス 螺旋と変奏』(思潮社)
北川透『海の古文書』(思潮社)
森川雅美『夜明け前に斜めから陽が射している』(思潮社)
岡本勝人『古都巡礼のカルテット』(思潮社)

7月某日

ここ最近の俳句関係の刊行物をいくつか。

・句集
宇多喜代子『記憶』(角川学芸出版)
山口昭男『讀本』(ふらんす堂)
奥坂まや『妣の国』(ふらんす堂)
今井豊『草魂』(角川書店)
天野小石『花源』(角川書店)

・評論関係
関川夏央『子規、最後の八年』(講談社)
週刊俳句編『虚子に学ぶ俳句365日』(草思社)
橋間石『俳句史大要 歴史と評伝と評釈』 赤松勝/編(沖積舎)
鈴木豊一『俳句編集ノート』(石榴舎)
『相馬遷子 佐久の星』(邑書林)
『シリーズ自句自解1 ベスト100 岸本尚毅』(ふらんす堂)
中岡毅雄『壺中の天地』(角川学芸出版)
復本一郎『『子規のいる風景』(創風社出版)

他に、出久根達郎『古本屋歳時記 俳句つれづれ草』(河出書房新社)という本が出ているらしい。

7月某日

中岡毅雄氏の評論集『壺中の天地』(角川学芸出版)を繙読。
全体でほぼ400頁とすごいボリュームで、現在のところ時間の都合もありまだ大体半分ほどにしか目を通せていないのであるが、取り敢えず現時点での印象としては、評論の内容によっては時折少し意見が分かれてしまう部分もあるものの(生意気なことをいってすみません)、いずれの評論も資料をしっかりと蒐集しそれらを丹念に読み込んだ上で構成されているため実に読み応えのある高密度で精緻な文章内容が展開されており、随分と啓発される部分が少なくない。このような重厚な内容の文章が、1冊の中に60篇近くもずらりと並んでいる姿はまさに壮観の一言に尽きる。
いまのところ個人的には、金子兜太、田中裕明、阿波野青畝、4Sなどの作者の特徴を明確に炙り出した評論に印象深いものがあった。
以下、この評論集より一部抜粋を。

「かつらぎ」や総合誌のバックナンバーを調べていくうちに、青畝は、自作を丹念に推敲していることが明らかになった。

水ゆれて鳳凰堂へ蛇の首 (『春の鳶』)

の原案(昭25・12、「俳句研究」)が、

水揺れて鳳凰堂にわたる蛇

であることを知った時は、胸が高鳴った。

「一語の重さ 青畝俳句と私」より

7月某日

高橋修宏氏の評論集『真昼の花火 現代俳句論集』(草子舎)が刊行された。
こちらの評論集もまだ殆どその内容について目を通せていないのであるが、鈴木六林男、宗田安正、和田悟朗、小川双々子、佐藤鬼房、三橋敏雄、安井浩司などが論じられている。
以下、この評論集より一部抜粋。

それは、確か平成十一年(一九九九年)の五月。西東三鬼賞の授賞式の行われた岡山県津山市で、はじめて鈴木六林男、三橋敏雄、佐藤鬼房の三氏に直接対面する機会に恵まれたときのこと。そして、授賞式とその後のパーティも終わり、鈴木、三橋両氏を中心に市内の飲み屋へと向かうとき。その道すがら私は、三橋氏に「先生が、現在の俳壇で注目するのは誰ですか?」と質問した。少し考えたのち、氏は笑いながら「かつて僕は、期待する新人は誰かと問われれば、三橋敏雄と答える。と書いたんだ」とこたえられたように思う。私は、それ以上の質問を差しひかえたが、新興俳句出身の作家、三橋敏雄のある生々しさを直に感じ取ると共に、生涯にわたって現役の作家でありつづけようとする矜持を手渡されたように思った。

「内なる〈新人〉 三橋敏雄掌論」より

7月某日

「百句晶晶」のため何か参考となりそうな資料が見つからないものかと、ひたすら頭の中の記憶や、手元の資料をひっくり返していたら、寺山修司の『黄金時代』という文庫本が出てきた。
1978年に刊行されたもので、どうやら内容としては「詩歌論集」であるようで、作家論の他に、冒頭に所謂「百人一首」が据えられてある。タイトルは「現代百人一首」で与謝野晶子、斎藤茂吉から村木道彦、佐佐木幸綱あたりまでの作者の短歌が100首取り上げられており、その内の50首に鑑賞文が付されている。鑑賞文については、ほぼ毎回一首に対して海外小説の話題が引用されているのが現在から見るとなんだか妙な印象を受けるが、その文章の内容はいずれも短い分量のものながら現在読んでみても卓見がありなかなか面白いものであるように思われた。
あと、この「百人一首」のみならず、この『黄金時代』における「あとがき」の方にも注意を引かれるものがあった。

『黄金時代』は大きく三つにわけられる。最初の「現代百人一首」は、以前から一度やってみようと思っていたもので、晶子、鉄幹の時代から建、幸綱の現代にいたる近代の百余年の歌を対象に、じぶんの好きなものを選び、それに勝手な鑑賞をつけたものである。

本書では、鑑賞は五十首にかぎってあるが、いずれは残りにも鑑賞を加えたいと思っている。

ただ、こうして選歌してみると、私は「歌よみの歌知らず」で、百人選ぶのに大苦労し、深夜、塚本邦雄を電話で悩ましたり、初出誌の「短歌」編集部に、締切おくれで大変迷惑をかけたりしたのであった。

「これが俳句なら」

と私は思った。俳句ならば、やすやすと百人選ぶことも百句選ぶこともできたことだろう。それは、単に私の嗜好の問題にとどまるものではない。俳句は、おそらく、世界でももっともすぐれた詩型であることが、この頃、あらためて痛感されるのである。

この「現代百人一首」における残りの50首の鑑賞文については一体どうなったのであろうか。もし完結していれば当然この文庫にも補填として収録されているであろうから、おそらくは書かれなかった可能性が高いということになろう。

あと、興味深いのが、「俳句ならやすやすと100句を選べただろう」という部分で、これについては是非とも成し遂げてもらいたかったという気がする。この100句選が実現しなかったのはなんとも残念である。

寺山が1983年に亡くならず生きながらえて、もしこの100句選と鑑賞文が実現していれば、このあとの俳句の世界の風景というのも若干変わっていた可能性もあったのかもしれない。まさしく幻となってしまった寺山の俳句の100句選であるが、もし完成していれば一体どのような内容となっていたであろうか。

7月某日

取り敢えず、今回の第1回目の「七曜詩歌ラビリンス」については、これにて終了としたい。
今後も幅広く詩歌関係の動きをチェックしてゆきたいところである。

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