自由詩時評 第13回 有働薫

詩の現在時―散文詩の必然性

 マラルメ、ヴェルレーヌ、ランボーらのルーツであるところのボードレール(1821年フロベール、ドストエフスキーと同年の生れ)は「夕べの諧調」、「秋の歌」、「旅への誘い」等、完璧な韻文定型詩の数々を創作したが、晩年に至って散文詩集の完成に心血を注いだ。没後に出版された『パリの憂鬱』と題する50篇から成る散文詩集の序文に、なぜ彼の最終的な希求が散文詩形だったかを明かす文章がある。そこにはまず、14歳年長のロマン派の詩人アロイジュス・ベルトランの散文詩集『夜のガスパール』を20回も読み返して、自分自身の今の生活を抽象的に描写する詩を作りたいという欲求にめざめたと告白したあとで、こう述べている:

《リズムも脚韻も持たないが音楽的であり、魂の抒情的な動きにも、夢想の波動にも、意識の飛躍にも適用されるような、柔軟で、かつまた、ごつごつした詩的散文の奇蹟を、野望にあふれた時期に夢想しなかったものなど、われわれのなかに、誰がいるでしょうか。》

つまり、完ぺきな韻文詩に心血を注ぎながらも、頭のどこかに散文によって詩を実現したいという〈野望〉を払いのけることができなかったと打ち明けている。いったいこの野望はどこから来るのか?

それを考えることは、現在の私たちの課題でもあるだろう。詩の完璧形に達したあと、私たちは何を望むだろうか? 詩の完璧形、それは多分酔いの状態だろう。現実から浮き上がり、漂う状態、この世に在りながらの麻痺状態。そこに時間という魔が手を伸ばし、ポエジイの忘我はやがて現実の苛酷へと落ちていく。ボードレールは自分の現存在が夢見心地でいるわけにはいかないことに気付いた。なぜ、詩が定型でも、韻文でもないのか?

その大きな理由は2つ。批評性と内的リズムである。ボードレールが気付いていたように、本質的なポエジイ(詩性)は言葉に外形を求めない。さらに本質的なポエジイは今現在を生きている(動いている、変って行く)。つまり、詩とは私たちの眼であり、息であり、想いであり、感情であり、意識である。現実に対する麻痺状態を脱し、覚醒的に生きている散文詩は、ポエジイでない詩を即座に露わにしてしまう。その散文詩が、詩を包んでいるか否かをいやおうなく露呈させる、定型韻文詩のように、形で主張する余地がまったくない、そんな詩の追い詰め方を、散文詩は可能にする。ボードレールはそこに詩の新たなあるべき姿を見たにちがいない。記憶するためにはルフランや頭韻脚韻が役立つだろうが、印刷技術と紙の普及の恩恵で、書かれ読むという行為が普遍化した現在、その媒体を利用したポエジイのさらに徹底した切込みが追求されることになった。真にポエジイを胚胎した精神のみが散文形で詩を書くことができると結論してもさしさわりあるまい。

前回に引き続いて、シュペルヴィエルの予感性に似た作品をボードレールからも挙げてみよう。全文は灰皿町の有働のブログを見てください:


熱なき太陽はむ六月頭上に浮かび、
残る六月は、夜が地上を蔽う、
これは極地よりさらに裸形の国、
――けだものも、流れも、青草も、森もない!
思えばこの世に、この凍りついた陽の
冷たい残酷と、いにしえの、 、混沌に似た
この涯しない夜にまさる恐怖はない。

「深キトコロヨリ叫ビヌ」2連、3連、『悪の華』所収 粟津則雄訳

 さて、最近印象に残った詩集4冊をあげよう。手塚敦史の3冊目の詩集『トンボ消息』(2011年5月ふらんす堂刊)は、日本語ってこんなに美しかったか、と唸らせる。けしてギクシャクせずにあくまで優雅な風情で、草深い地に下向した都の歌詠みといった姿を髣髴とさせ、そこに現代人の生命力を注入し、惜しみなくこの若い詩人はどんどん変化しようとする。詩は流れるものであって、1箇所にとどまるものではないのだ。國峰照子『ドン・キホーテ異聞』(7月思潮社刊)は読みの楽しさを満喫させてくれる。酷暑下の読書ではまずは冒頭の「某」を「それがし」と読めなかったら無理な読書はしないほうが熱中症対策にもなるだろう。知り合いから頼まれてチケットを買ってオペラに出かけてみたが、中休みで帰宅してしまったと話す友人に、理由を問うと、愛だの思いだのちっとも入り込めなくて、ということだった。そういう人はこの詩集を存分に楽しむだろう。詩ってこんなに面白いものだったの!と。愛や恋に縁遠くとも、人生は滋味深い。超黒音詩人(Super high skilled poet)の数寄屋御殿は涼しく風通しが良い。《もういちど『ドン・キホーテ』を最初から読み直して》(P67)みたくなった。南原充士『インサイド・アウト』(4月洪水企画刊)は定型抒情詩の試みで数篇のソネットからはじまる。面白いことにやがてその着物を少しずつずらし始めるとその人の裸体が見えてくる。思いのままにくずれていく、そのたゆたいに浮かぶ快さを味わう。小島きみ子『その人の唇を襲った火は』(6月洪水企画刊)は詩に向き合う情熱に圧倒される。大半が散文詩形で表現も構成も巧みだが、この人は多分刈り込みの季節に入ったのではないだろうか。実生活との接点をさらに厳しく点検して、生存にどうしても欠かせないもの以外のトリビアな知識など刈り捨てると、この人本来のイメージの美しさがさらに輝きを増すだろう。巧みすぎる詩への警戒心をときほぐす清廉さを期待したい。

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